商用化
商用化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 14:58 UTC 版)
1979年、当時カリフォルニア大学バークレー校 (UCB) の教授だったリチャード・フェイトマンの要望で、MITは Macsyma のコードの一時的ライセンスを提供した。これを使い、フェイトマンの研究室で Maclisp から派生させた Franz Lisp(英語版) を使い、VAX-11/780 上にすぐさま移植した。MITは、適切なライセンス条件の交渉が完了した際には現状の一時的ライセンスは破棄されるという条件で、UCBが VAX 版 Macsyma をカリフォルニア工科大学など約50の大学に配布することをしぶしぶ許可した。実際、後述するシンボリックスとの契約が成立した際に従来のライセンスは破棄された。するとシンボリックスはVAX製品が同社のLISPマシンと性能的に競合することからVAX版Macsymaのライセンス提供を渋り、結局5年間VAX版のライセンスを提供しなかった。UCBはさらにサンのワークステーションなどMC68000を使ったシステムにもMacsymaを移植した。同じころフェイトマンは、破棄された当初のライセンスを恒久化すべく働きかけていた。 最終的に1982年、アメリカ合衆国エネルギー省 (DoE) はMITに対して National Energy Software Center (NESC) ライブラリにコピーをリリースさせるという条件と引き換えに、高い価格設定と再配布禁止というライセンス条件をMITが設定することを許可した。これはシンボリックスへの技術移転を保護することを意図したものだった(そのような制限は2002年ごろ撤廃された)。このいわゆる DOE Macsyma はMITが Common Lisp の前身である NIL で書き直したもので、当時学界で主流だった Berkeley VAX Unix ではなく、人気のない VAX/VMS で動作した。DOE Macsyma は後のオープンソースの Maxima の基礎となった。 1981年、モーゼスとリチャード・パヴェル(MIT職員で、Macsymaを工学や科学に適用することを提案した)は Macsyma を商用化するための会社を創業しようとした。パヴェルは Macsyma を使った科学的論文を多数書いていた。そうした論文を手に、パヴェルとモーゼスは出資に興味を示したいくつかのベンチャーキャピタルを訪れた。契約が成立しそうになったころ、MITはMITの人間がMITでの開発で直接利益を得るべきではないと決定した。1982年初め、MIT は Macsyma をアーサー・D・リトル (ADL) にライセンス供与し、同社が Macsyma の仲買人となり、1982年後半には Macsyma をシンボリックスにライセンス供与した。この間にADLによってモーゼスが締め出され、パヴェルがシンボリックスのMacsyma部門のトップに就任することになった。シンボリックスはMacsymaを独占することにはそれほど興味がなく、競合するLISPマシン企業 LMI(英語版) もライセンス供与を受けている。シンボリックスとADLの契約では、Macsymaの売り上げの15%をロイヤリティとしてADLに支払うことになっていた。この法外なロイヤリティは、Macsyma が絶対に売れるとMITとADLが考えていたことの表れである。シンボリックスではLISPマシンを売るのが本業と考えていたが、Macsyma の開発も継続していた。Macsyma およびそれを搭載したLISPマシンの売り上げは2年以内にシンボリックスの売り上げ全体の10%を占めるようになっていった。シンボリックス社内からは多くの抵抗があったが、1980年代初めから中ごろに Macsyma をバークレーの Franz Lisp で書いたものがDECのVAXやサンのワークステーション向けにリリースされた。 他社のコンピュータ向けにも Macsyma が販売されるようになると、Macsyma を搭載したシンボリックスのLISPマシンの売り上げが低下していった。市場自体は成長しているにも関わらず、1986年上半期の Macsyma の売り上げは、1985年上半期の売り上げより低下した。数式処理という点では明らかに Macsyma の方が優れていたが、そのころスティーブン・ウルフラムのSMPやウォータールー大学のMapleが売り上げを伸ばしていた。 パヴェルはシンボリックスの Macsyma 部門を1986年初めごろまで指揮していた。1986年後半にはリチャード・ペッティに引き継がせ、シンボリックス社内の衝突を避けるため、経営陣は Macsyma の販売を減らす方針を採用した。Macsyma部門の従業員数は削減されたが、営業部門は強化し、顧客が求める機能を開発することに集中するようにした。例えば、グレブナー基底を求めるアルゴリズムは1970年代にMITで発展したが、1987年まで製品版 Macsyma にそれが搭載されることはなかった。1987年、Macsyma の年間売り上げはほぼ倍増した。マニュアルやオンラインヘルプが改良され、コマンド名をさらに覚えやすくし、Macsyma は格段に使いやすくなっていった。ペッティはシンボリックス経営陣に対して、Macsyma はハードウェア部門の戦略とは切り離して出資されるべき戦略事業単位だと主張した。しかし、シンボリックスはその後も Macsyma 部門の人員を削減している。シンボリックスは多大な赤字を出しているハードウェア部門の赤字補填のドル箱として Macsyma を使おうとした。 Macsyma の最大の弱点は数値解析能力の低さだった。数式処理は難しいタスクだが、数値解析はより大きな科学技術計算市場に参入する際に重要となる。MIT版 Macsyma は数値計算ライブラリ IMSL とリンクしていたが、シンボリックス版 Macsyma ではこのリンクは難しかった(LISPマシン向けのIMSLがない)。シンボリックスのLISP開発者は数値解析を古い技術だと信じていて、LISPの用途としては重要でないと考えていたため、その方面の強化を怠っていた。PC版 Macsyma の倍精度演算は、FORTRANの6倍の時間がかかった。また行列をリストのリストとして実装していたため、重要なアルゴリズムの性能低下の要因となっていた。Macsyma にはLU分解のような数値線形代数の基本アルゴリズムも備わっていなかった。 1987年から1988年にかけて、Gold Hill Lisp を使ったPC版 Macsyma をリリースしようとした。一般的なコンピュータ向けにLISPコンパイラを開発することはシンボリックスにとって本業であるLISPマシンと競合する相手を作るようなもので、シンボリックス経営陣はそのプロジェクトをやめさせた。しかし、プロジェクトは経営陣には無断で続行された。ところがこの Gold Hill Lisp は非常に不安定で、アーキテクチャに問題があるためバグ修正も難しかった。これが Macsyma にとっては致命傷となった。1988年中ごろにMathematicaのMacintosh版が登場したとき、PC版Macsymaを対抗してリリースすることができなかった。Windows版Macsymaは、シンボリックスが開発した CLOE Lisp を使って1989年8月にリリースされた。しかしそのころ Macsyma 部門の人員はあまりに少なく、Mathematicaが備えていたグラフィックス描画機能、ノートブック・インタフェース、数値演算機能などに対抗できるものを実装できなかった。 1989年、シンボリックスは製品戦略の失敗から事業を整理統合する必要に迫られた。ペッティは Macsyma 部門を独立させようとしたがMITから資金協力を得られなかった。1988年末、ペッティは経営陣にソフトウェア専業への移行を進言したが、受け入れられなかった。そこで新たな企業を創業するためペッティはシンボリックスを退社した。
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