1983年の法改正
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 12:56 UTC 版)
1981年5月、総理府 総務長官の中山太郎が日本学術会議の「公選制に疑義あり」と発言する。同年10月の同会議総会において、当時の同会議会長の伏見康治は、「学術会議の性格を変えてはならない」「会員の選挙制を守る」と語り、「研究連絡委員会の役割の重要性」を強調した。当時副会長であった岡倉古志郎を委員長とする改革委員会を中心に「各部定員30名のうち20名を選挙で選び、残り10名を推薦制にする」という「改革要綱」がまとめられ、1982年10月の総会で決議。 「政府との交渉に入るにあたって三役の陣容一新が必要」として会長の伏見と副会長の岡倉、塚田裕三は辞任し、第12期途中で会長は久保亮五に交代。久保新会長は首相に「改革要綱」を提出するが、鈴木善幸政権時の1982年11月、総理府総務長官から「改革についての総務長官試案」を示される。1983年2月の総会、4月の臨時総会も経て久保会長は「改革要綱」に基づく折衝を続けるが、中曽根政権は同年4月に「日本学術会議法の一部を改正する法律案」を閣議決定。その内容は登録された科学者団体を基礎とする研究連絡委員会ごとの推薦制というものであり、学術会議の事前合意なしに国会へ提出された。これを受けた5月の総会で「職務遂行は困難」として久保は会長を辞任。塚田裕三が会長を引き継ぐことになる。 当時の中曽根康弘首相は、国会で「学会やらあるいは学術集団からの推薦に基づいて行われるので、政府が行うのは形式的任命にすぎません。したがって、実態は各学会なり学術集団が推薦権を握っているようなもので、政府の行為は形式的行為であるとお考えくだされば」と形式的任命であると答弁していた。11月の国会で改正法案は可決され、塚田会長は遺憾の意を示す声明を発表。塚田と副会長は「けじめをつけるため」に辞任したが、再任されている。 このように、第12期は一貫して政府の法改正に反対の立場を取った。1980年初頭の頃から「コ・オプテーション(英語版)方式は政府の宿願であった」とも言われている。日本学術会議の側でも、公選制では複合領域・学際領域の研究者や重要な国際学術団体を担っている学会の代表者が選出されにくいことから、3分の2は公選で残り3分の1をコ・オプテーション方式とする提案があった。なお、この法改正で研究連絡委員会が法制的に確立し、定員が拡充された。また、研究連絡委員会、分科会、専門委員会における専門分野の枠組みも再編されている。
※この「1983年の法改正」の解説は、「日本学術会議」の解説の一部です。
「1983年の法改正」を含む「日本学術会議」の記事については、「日本学術会議」の概要を参照ください。
- 1983年の法改正のページへのリンク