金曜20時戦争
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1970年代から1980年代にかけて金曜20時に放送された『太陽にほえろ!』(日本テレビ)と『ワールドプロレスリング』(テレビ朝日)、TBSのドラマ・バラエティ番組の視聴率争いを中心としたものである。『太陽にほえろ!』と『ワールドプロレスリング』の両番組は、ほぼ同時期にスタートし同時期に終了や枠移動を行っている。当時、日本プロレスの中継は日本テレビとNET(現テレビ朝日)の2局で放送を行っていたが、日本プロレスの意向により日本テレビはジャイアント馬場の試合を、NETはアントニオ猪木の試合を中心に放送していた。その後、日本プロレスから猪木が除名追放されたことを機に、NET首脳陣は馬場の試合中継を要求。日本プロレス幹部がこれに応じたため、日本テレビ側が激怒。1972年5月、放送していた『日本プロレス中継』を打ち切り、7月21日から金曜夜20時枠に刑事ドラマ『太陽にほえろ!』の放送を開始した。 詳細は「日本プロレス#崩壊」および「日本プロレス中継#実況中継終了」を参照 「ジャイアント馬場#猪木のクーデターと放送問題」および「上田馬之助 (プロレスラー)#密告事件」も参照 一方のNETは、『太陽にほえろ!』の放送開始から1週間後の7月28日より、同じく金曜夜20時枠に『NET日本プロレスリング中継』のタイトルでプロレス番組を開始した(翌1973年4月より、その前年1月に潴木が設立した新日本プロレスの試合中継を放送するのを機に『ワールドプロレスリング』に再改題)。当初、日本テレビは『太陽にほえろ!』の放送を1クールで終了させ、10月から馬場が設立した全日本プロレスの中継番組を『ワールドプロレスリング』に直接ぶつける計画があった。しかし、『太陽にほえろ!』が高視聴率を記録したため、『全日本プロレス中継』は「お化け番組」と呼ばれた『8時だョ!全員集合』にぶつける事となった(詳細は前述の「#土曜夜戦争」を参照)。その後、『太陽にほえろ!』が、新人や無名の若手俳優を主演の新米刑事として出演させ、成長させるパターンで安定した視聴率を稼いだのに対し、『ワールドプロレスリング』が、猪木を中心とした「ストロングスタイル」をメインに、「過激なプロレス」(「ハイスパート・レスリング」とも呼ばれた)や、「異種格闘技戦」路線で高視聴率を挙げた。 詳細は「太陽にほえろ!#太陽にほえろ! 誕生まで」および「全日本プロレス中継#土曜20時枠時代」を参照 「日本プロレス#団体崩壊後」および「ワールドプロレスリング#放送開始 - 古舘の全盛期」も参照 両番組のために低迷していたTBSは1979年秋から、学園ドラマの『3年B組金八先生』(以下『金八先生』)を放送。『金八先生』は放送開始するや瞬く間に巷の話題となって視聴率が毎回上がり続け、視聴率争いは三つ巴となる。『金八先生』は半年後の終了前には30パーセントを超える視聴率を毎回獲得して『太陽にほえろ!』と『ワールドプロレスリング』を完全に逆転した。特に『金八先生』第1シリーズの最終回は関東地区で39.9パーセントの視聴率を記録した。同日、『太陽にほえろ!』は400回スペシャルを放送したが視聴率は『金八先生』の半分以下18.8パーセントに終わる。『金八先生』第1シリーズ終了後もTBSは『金八先生』と舞台設定を同じにした学園ドラマ(通称・『桜中学シリーズ』)をこの時間帯に敷いてリードを保った。しかしその間にも『太陽にほえろ!』は見所であった殉職降板や新刑事登場を連発して巻き返しを図り、『ワールドプロレスリング』側も1981年4月、同時期にテレビ朝日系列で放送がスタートしたテレビアニメ『タイガーマスク二世』とのタイアップ企画によって誕生したタイガーマスク(初代)の登場、そしてデビュー。ライバル団体全日本プロレスとの外国人レスラーの引き抜き合戦、同年8月に崩壊した国際プロレスの残党(ラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇)によって結成された「国際軍団」や、長州力率いる「維新軍団」(結成当初は「はぐれ狼軍団」や、「革命軍」とも呼ばれた)を登場させ、猪木率いる本隊にあたる「新日正規軍」を加えた三つ巴の軍団抗争や、正規軍・藤波辰巳と維新軍団・長州との「名勝負数え歌」が人気を呼んだ。特に、後に維新軍団に加わる小林邦昭がタイガーマスクのマスクを剥ぎにかかるシーンが放送されると、タイガーの正体の見たさに視聴率が上昇した。その反抗の影響と、『桜中学シリーズ』自体もシリーズを重ねて飽きられ始めると、再び三つ巴の様相となっていったものの、『桜中学シリーズ』は徐々に視聴率を落とし、ついに1983年3月、『3年B組貫八先生』を最後に金曜20時枠での放送を終了した。 詳細は「桜中学シリーズ#作品・放送リスト」および「3年B組金八先生#概要」を参照 『桜中学シリーズ』終了後、しばらくの間は児童や若者向けのドラマを中心に放送していたTBSは、1986年5月に絶大な人気を誇っていたビートたけしをメインに据えた、視聴者参加型バラエティ番組『風雲!たけし城』(以下『たけし城』)をスタートさせると、視聴率が逆転し金曜20時の視聴率の覇権を収めた。対する日本テレビは主演の石原裕次郎の体調不良もあって、『太陽にほえろ!』の終了を決断(石原未出演のPART2を含めると、番組は翌1987年2月で終了。石原は同年7月に死去)。テレビ朝日も1986年10月、『ワールドプロレスリング』を月曜20時へ移動させ、音楽番組『ミュージックステーション』(以下『Mステ』)の放送を開始した。 しかし、これら長寿番組だった両番組を打ち切り(『太陽にほえろ!』)や放送時間変更(『ワールドプロレスリング』)に追いやった『たけし城』だが、前述のフライデー襲撃事件により、看板だったビートたけしと襲撃に参加したたけし軍団が芸能活動謹慎となったことで、番組を降板して一時の勢いが衰えてしまう。彼らは事件から約半年後に番組に復帰したものの、勢いを取り戻すことはできず、1989年4月に『たけし城』はレギュラー放送を終了した。一方、『Mステ』は放送開始当初は視聴率を取れなかったが、放送開始から約半年後の1987年4月、タモリが2代目の司会に就任後、一定の人気を得た。番組にはジャニーズ事務所所属の男性アイドルをはじめ、様々なゲストが登場。中でも番組放送開始から3カ月後、タモリが司会者に就任する前の1987年1月には、かつてのライバル番組(『太陽にほえろ!』)に出演していた石原裕次郎がハワイの別荘からビデオ出演。近況報告後、カバー曲の「BEYOND THE REEF」を披露し、番組にエールを送った(前述の通り石原は番組出演から約半年後の同年7月に死去したため、この番組が彼にとって生涯最後のテレビ出演となった)。また、1996年には同年4月から日本テレビ系で放送されていたバラエティ番組の『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』(以下、『ウリナリ』)から誕生したユニット「ポケットビスケッツ」、「ブラックビスケッツ」の登場、そしてブレイクにより、視聴率面で苦戦する事もあったが、1999年6月の宇多田ヒカルテレビ初出演で視聴率を20%台に乗せた。1990年代半ばから2000年台初め頃の「金曜20時戦争」は、かつての前述1970年代の「『太陽にほえろ!』対『ワールドプロレスリング』」のように、日本テレビとテレビ朝日の2強時代が長らく続いていたが、最終的に『Mステ』は 「金曜20時戦争」に勝利を収め、2002年3月で『ウリナリ』を放送終了に追い込んだ。その後『Mステ』は、2019年10月改編で金曜21時に枠移動。後枠として水曜23時台に放送していた『マツコ&有吉 かりそめ天国』の放送時間を変更させた上でゴールデンタイムに進出した。 「ミュージックステーション#沿革」も参照 一方、フジテレビは1979年秋に当時人気番組だった『ザ・ベストテン』に対抗して『ビッグベストテン』を開始させるが、視聴率が振るわず、わずか5ヶ月で打ち切られた。また後続番組『花の金曜ゴールデンスタジオ』→『ハナキンスタジオ』も、同様に打ち切られ単発番組枠へ移動した。1988年、『Mステ』や『たけし城』に対抗するため、明石家さんまを中心とした新番組の計画や『ひょうきん族』の放送枠移動の計画があったが、当時の昭和天皇の病状悪化による自粛ムードや、出演者側のスケジュールの問題などもあり中止になった。
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