団体崩壊後
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最後まで国内に残った大木ら9選手は、身柄を預けた形の『赤坂の日プロ』をクッションにして、1973年4月27日に赤坂プリンスホテルで全日本と合同記者会見を行い移籍したが、実際には日本テレビと1976年3月31日までの3年契約を結んだもので、同年6月30日開幕の『'73サマー・アクション・シリーズ』から全日本プロレスへ派遣する形となった。国内に残留していた9選手の日本テレビとの契約内容には、日本テレビの許可なく新日本・国際への試合出場や移籍を禁止する条項が含まれていた(契約を途中で解除して新日本や国際へ移籍することも不可、日本テレビに無断で新日本や国際に出場もしくは移籍した場合は契約違反となった)。残党9名の内、高千穂明久、グレート小鹿、羽田光男(ロッキー羽田)、ミツ・ヒライ、桜田一男、伊藤正男の6人は日本テレビとの3年契約後、全日本に正式所属となった。 一方で大木、上田馬之助、松岡巌鉄の3人は全日本の体制に不満を示し日本テレビとの契約期間中に全日本を退団した。大木はその後『'74新春NWAシリーズ』以降を無断欠場した上で、契約違反を犯して新日本に参戦し猪木や坂口などと対戦した後全日本に復帰したが、1980年に国際の中継番組であった『国際プロレスアワー』を放送していた東京12チャンネル主導で国際に入団したものの(東京12チャンネルとの半年契約での入団)、入団に際して国際代表であった吉原と東京12チャンネルとの軋轢を生じさせ、崩壊後も保持して母国の韓国で防衛戦を行っていたインターナショナル・ヘビー級王座の防衛戦を、NWA非加盟団体であった国際で行ったため、全日本から抗議を受けたほか、NWAからベルト返上勧告を受けてしまい、その後東京12チャンネルからも契約を打ち切られた。上田と松岡の2人は『'73創立一周年記念ジャイアント・シリーズ』第3戦蔵前国技館大会(1973年10月9日)を以って海外武者修行から帰国した鶴田友美(ジャンボ鶴田)と入れ替わるように退団し、契約適用外の海外へ活路を求めたが、上田は日本テレビとの契約満了後にフリーとなり後に国際や新日本などへ参戦して猪木やラッシャー木村などと対戦した一方で、松岡は上田と海外サーキット中に軋轢を生じてしまい、二度と日本のリングに上がることのないまま1974年末に廃業した。 ただし、崩壊前に海外武者修行へ出発し、なおかつ修行先で崩壊を迎えた星野勘太郎、永源遙、安達勝治、林牛之助、戸口正徳の5名は日本テレビとの専属契約対象外であったため、帰国後は星野と永源は新日本に、林は全日本にそれぞれ正式入団した他、安達と戸口は引き続き海外マットを主戦場とした。 また、興行休止で一旦途絶えた形となった管理タイトル、UNヘビー級王座、アジアヘビー級王座、アジアタッグ王座も、暫くの空白期間を経て、「復活」という形で全日本プロレスへ継承された。海外に流出していたインターナショナル・タッグ王座は、2年後の1975年、ジャイアント馬場・ジャンボ鶴田組が奪還して日本に定着。また、大木が保持していたインターナショナル・ヘビー級王座は、1981年、大木の返上により全日本のタイトルとして「復活」した。力道山の死後に封印された日本ヘビー級王座のベルトは1992年に力道山にとって二所ノ関部屋の後輩でもある天龍源一郎により旗揚げされたWARにおける日本J1王座のベルトとして流用されている。 興行を失った後も日本プロレスは会社組織として数年間存続し、社長だった芳の里はNWA会員名簿にそれまで残されていた。 なお、日本プロレス出身で現在現役選手として活動しているのは、セミリタイア状態を含め、グレート小鹿、藤波辰爾、百田光雄の3名である。
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