実況中継終了
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1971年12月13日、日本プロレスが猪木を除名処分することを発表。日本テレビは同年12月31日に後楽園ホールからの生中継を放送することによって、日本プロレス内部の混乱の収拾に努めたが、当日の視聴率は『第13回日本レコード大賞』(TBS)の影響で、平均よりも低い15.4%であった。 1972年1月、NETが日本プロレスに対し、NETが放送する試合における馬場の試合出場を要求。日本プロレスは日本テレビとの交渉を開始するが、日本テレビは拒否の姿勢を貫いた。 1972年3月、日本プロレスと日本テレビとの間でテレビ放送に関する契約更改交渉が行われたが、契約更改の席でも日本テレビは、馬場のNETが放送する試合への出場拒否の姿勢を変えぬまま、テレビ中継に関する契約も更改しなかった。 その後の日本テレビと日本プロレスとの話し合いも、馬場の日本テレビ独占契約の解釈をめぐり、「継続中」とする日本テレビと、「終了」とする日本プロレスとで、平行線をたどった。いよいよ日本テレビは、強硬手段をとるに至る。 新日本プロレスを旗揚げした猪木も同時期に、日本テレビから1972年夏からの新日本プロレス中継開始の打診を受けていた事を明かした他(後に断念)、「日本テレビは『日本プロレス中継』を打ち切るだろう」と爆弾発言し、マスコミも本番組の動向に目を向けるようになる。 1972年4月1日、日本プロレスの取締役会にて、同年4月1日以降の馬場のNET中継試合出場が、賛成10・反対1で可決し(馬場も取締役だったが、唯一反対票を投じた)、同時に長谷川淳三が1972年4月3日放送の新潟市体育館大会の『ワールドプロレスリング』生中継からNETが放送する試合に登場させることを発表。 1972年4月3日、NET『ワールドプロレスリング』新潟大会の生中継において『ジャイアント馬場初登場』と銘打ち、馬場の出場した試合(馬場&坂口vsディック・マードック&マイティ・ブルータス)を放送。 1972年4月4日、日本テレビが東京地裁に、ジャイアント馬場のNET中継試合への出場を禁ずる仮処分申請を提出。 1972年4月末、日本プロレスが同年4月20日以降も日本テレビとの会談に応じなかったため、日本テレビはスポンサーである三菱電機との協議の末、三菱電機がスポンサー降板を即決で決定した上で、実況中継を打ち切ることを決定。 1972年5月12日、第14回ワールド大リーグ戦決勝戦(馬場対ゴリラ・モンスーン戦ほか、東京体育館)を生中継。 最終的には全国31局ネットで、島根県・岡山県を除く44都道府県と当時アメリカ施政権下の沖縄での放送となった。また番組スポンサーも、三菱電機だけでなく、鈴木自動車、久保田鉄工が付く複数社スポンサーとなっていた。 日本テレビは1972年5月15日に記者会見で、1972年5月12日放送を以って定期中継の打ち切りを正式発表し、18年3か月続いた日本テレビにおける日本プロレス中継は幕を下ろした。打ち切り会見で日本テレビは、日本プロレス首脳陣を糾弾した。最終的に日本テレビは、日本プロレスよりも、メインスポンサーであった三菱電機を選択した格好となった。
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