実況中継終了とは? わかりやすく解説

実況中継終了

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 14:01 UTC 版)

日本プロレス中継」の記事における「実況中継終了」の解説

1971年12月13日日本プロレス猪木除名処分することを発表日本テレビ同年12月31日後楽園ホールからの生中継放送することによって、日本プロレス内部混乱収拾努めたが、当日視聴率は『第13回日本レコード大賞』(TBS)の影響で、平均よりも低い15.4%であった1972年1月NET日本プロレス対しNET放送する試合における馬場試合出場要求日本プロレス日本テレビとの交渉開始するが、日本テレビ拒否姿勢貫いた1972年3月日本プロレス日本テレビとの間でテレビ放送に関する契約更改交渉が行われたが、契約更改の席でも日本テレビは、馬場NET放送する試合への出場拒否姿勢変えぬまま、テレビ中継に関する契約更改しなかった。 その後日本テレビ日本プロレスとの話し合いも、馬場日本テレビ独占契約解釈をめぐり、「継続中」とする日本テレビと、「終了」とする日本プロレスとで、平行線たどった。いよいよ日本テレビは、強硬手段をとるに至る。 新日本プロレス旗揚げした猪木同時期に日本テレビから1972年夏からの新日本プロレス中継開始打診受けていた事を明かした他(後に断念)、「日本テレビは『日本プロレス中継』を打ち切るだろう」と爆弾発言し、マスコミも本番組動向目を向けるうになる1972年4月1日日本プロレス取締役会にて、同年4月1日以降馬場NET中継試合出場が、賛成10反対1で可決し馬場取締役だったが、唯一反対票を投じた)、同時に長谷川淳三1972年4月3日放送新潟市体育館大会の『ワールドプロレスリング生中継からNET放送する試合登場させることを発表1972年4月3日NETワールドプロレスリング新潟大会の生中継において『ジャイアント馬場初登場』と銘打ち馬場出場した試合馬場&坂口vsディック・マードック&マイティ・ブルータス)を放送1972年4月4日日本テレビ東京地裁に、ジャイアント馬場NET中継試合への出場禁ずる仮処分申請提出1972年4月末、日本プロレス同年4月20日以降日本テレビとの会談応じなかったため、日本テレビスポンサーである三菱電機との協議の末、三菱電機スポンサー降板即決決定した上で実況中継打ち切ることを決定1972年5月12日第14回ワールド大リーグ戦決勝戦馬場ゴリラ・モンスーン戦ほか、東京体育館)を生中継最終的に全国31ネットで、島根県岡山県を除く44都道府県当時アメリカ施政権下の沖縄での放送となった。また番組スポンサーも、三菱電機だけでなく、鈴木自動車久保田鉄工が付く複数スポンサーとなっていた。 日本テレビ1972年5月15日記者会見で、1972年5月12日放送以って定期中継打ち切りを正式発表し18年3か月続いた日本テレビにおける日本プロレス中継は幕を下ろした打ち切り会見日本テレビは、日本プロレス首脳陣糾弾した最終的に日本テレビは、日本プロレスよりも、メインスポンサーであった三菱電機選択した格好となった

※この「実況中継終了」の解説は、「日本プロレス中継」の解説の一部です。
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