土曜20時枠時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 21:29 UTC 版)
「全日本プロレス中継」の記事における「土曜20時枠時代」の解説
1972年10月、新番組『全日本プロレス中継』が毎週土曜日の20:00 - 20:55(1975年10月より20:00 - 20:54)に放送されることとなると同時に日本テレビにおけるプロレス中継が3カ月ぶりに復活した。当初は全国29局ネットで開始した。第1回(10月7日)当日の新聞に掲載されたキャッチコピーは「お待たせしました! リングの王者ジャイアント馬場日本テレビに再登場! いよいよ今夜8時」「18年の歴史を誇る日本テレビ全日本プロレス中継」と謳われていたように、日本テレビにおける馬場の試合中継並びに、日本テレビにおけるプロレス実況中継が5か月ぶりに復活する事をアピールした。第1回(10月7日)は「海外遠征第一戦『G・馬場対ザ・シーク』」(1972年9月20日、ホノルル)、第2回(10月14日)は「G・馬場アメリカ転戦記」と題し、団体旗揚げ前の馬場が、アメリカ遠征で行った試合の模様(一部、馬場以外の所属選手も含む)を放映。第3回目となる10月21日の「ジャイアントシリーズ前夜祭」(東京都町田市体育館)の生中継から、正式に新団体の中継放送に入り、翌10月22日に行われた旗揚げ第1戦である「'72ジャイアント・シリーズ」開幕戦日大講堂大会は10月28日に録画中継された。 創立初期は、馬場の人脈を利して一流外国人を常時招へいする一方、国際プロレスとも協力関係を築き、日本陣営に国際プロレスから移籍したサンダー杉山やザ・デストロイヤーを参加させたり、国際プロレスの選手を出場させるなど、選手の拡充を図った。さらに、鶴田友美(ジャンボ鶴田)、天龍源一郎などといった、話題性のある大型新人を、積極的にデビューさせていった。1973年6月に同年4月に崩壊した日本プロレスの残党が合流した他、1974年3月には国際プロレス中継番組であった『TWWAプロレス中継』(TBS)を打ち切られた国際プロレスと正式に提携した。 都内におけるビッグマッチは、初期は主に日大講堂を使用していた。全日本が日大講堂をビッグマッチ会場とした理由は、日本テレビと日大講堂との間でボクシング中継に関する包括契約が締結されていたためである。日大講堂における全日本プロレスの興行は、日本大学が日大関連の行事以外の使用中止を通告した1977年3月まで続けられた。 1970年代から1980年代にかけては「プロレスの本場」としてのアメリカや、NWAの権威や地位などがまだまだ保たれていた時代であり、そのまま実質的に日本で唯一のNWA加盟団体であった全日本の強味となっていた。NWAなど数々のメジャーなタイトル戦の開催や、NWA公認の数多くのタイトルの新設(もしくは復活)、そしてNWAvsAWAの世界ヘビー級ダブルタイトル戦などアメリカでも実現不可能といわれた豪華な企画やマッチメイクが出来たのは、まさに当時の「馬場・全日本」だからこそ成し得たものだった。 こうした豪華でグローバルなイメージは、テレビマッチのラインナップにも強く反映され、海外の試合(主に所属選手の海外遠征時の試合。NWAエリアが多かった)も数多く放映された。1974年9月には東京12チャンネルにて『国際プロレスアワー』が開始し、国際プロレス中継が復活したが、『国際プロレスアワー』はネット局が少なかったため、ラッシャー木村やグレート草津などの国際プロレス所属選手の出場試合は、大部分の地域では本番組でしか視聴できなかった他、馬場VS国際プロレス所属選手の試合、1975年に開催された「オープン選手権」は基本的に日本テレビの独占中継となるなど、馬場と日本テレビは、国際プロレスと東京12チャンネルに対する影響力も強めていった。 なおこの時期、4~10月まではプロ野球ナイター(読売ジャイアンツ主管試合中心)が編成・開催された場合は野球を優先したため、23:45-24:40に繰り下げ(雨天中止の場合は定時通り)して放送が行われた。(後述参照) 視聴率は、開始当初からプロ野球中継放送の場合は深夜に時差放送されていたことや、裏番組でなおかつ30%以上の高視聴率を叩き出していた『8時だョ!全員集合』(TBS)や、視聴者のターゲットを子供に定めた「変身大会」と称した特撮(『人造人間キカイダー』→『キカイダー01』)とアニメ(『デビルマン』→『ミクロイドS』→『キューティーハニー』)の2本立て(NET)や、1975年4月よりレギュラー放送を開始した『欽ちゃんのドンとやってみよう!』(フジテレビ)の影響で苦戦が続き、実力世界一路線や猪木とタイガー・ジェット・シンとの抗争で人気を博し、かつ視聴率が20%以上をたたき出していた『ワールドプロレスリング』を下回る週が多く、1973年7月 - 9月の土曜20時台に放送されたときの視聴率は7% - 9%といった有様で、同年8月には4%の回もあったという。また、初期の日大講堂における興行も閑古鳥が鳴く有様だった。テコ入れ策として、1973年10月にはアントン・ヘーシンクをデビューさせたり(同年11月24日のデビュー戦の視聴率は約18%)、1977年には「世界オープンタッグ選手権」を開催したが、優勝決定戦の視聴率は15.9%に終わった他、1978年には11月25日に開催された国際プロレス「日本リーグ争覇戦」蔵前国技館大会の実況生中継を放送したり、第1回となる「世界最強タッグ決定リーグ戦」を開催したものの、最終的に視聴率アップには繋がらなかった。全日本プロレスと国際プロレスとの関係も、「日本リーグ争覇戦」蔵前大会当日に新日本プロレスのストロング小林と小林邦昭が、1978年12月16日開催の新日本プロレス「プレ日本選手権」蔵前大会に木村、アニマル浜口、寺西勇、吉原功代表がそれぞれ登場したことから全日本プロレスと国際プロレスとの不協和音が発生。これに伴い、全日本と国際との提携は1978年を以って終了した。 1979年4月の日本テレビの大幅改編に伴い、土曜20時枠の放送は同年3月31日の新潟県三条市厚生福祉会館大会(「'79チャンピオン・カーニバル」第25戦)の生中継を以って終了した。
※この「土曜20時枠時代」の解説は、「全日本プロレス中継」の解説の一部です。
「土曜20時枠時代」を含む「全日本プロレス中継」の記事については、「全日本プロレス中継」の概要を参照ください。
- 土曜20時枠時代のページへのリンク