猪木のクーデターと放送問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 07:57 UTC 版)
「ジャイアント馬場」の記事における「猪木のクーデターと放送問題」の解説
1971年、日本プロレスの経営方針やレスラーの扱いなどに不満を覚えていた猪木と当時の後援会長が独自に改革案を製作し、馬場も含め多くの選手が賛同し、これを幹部に突きつけ、経営陣の刷新を図ろうとしていた。同年11月30日、流れに疑問を感じていた馬場が上田馬之助を捕まえて問いただしたところ、経営陣の刷新後は馬場も追い出す計画もあることを知り、馬場が経営陣にその旨を伝えた。猪木の行動は経営乗っ取りを狙ったクーデターとみなされ、12月13日に猪木は日プロを除名された。 また、日本プロレスは長年、日本テレビでのみの中継放送を行っていたが、グレート東郷とルー・テーズの会社がアメリカのプロレスを放送させようとNETテレビ(のちのテレビ朝日)に企画を持ち込んでいたのを脅威に感じ、1969年5月からNETテレビでも放送を始める。 当初は日本テレビは馬場・坂口征二、NETテレビは猪木という棲み分けが出来ていたが、その後なし崩し的に坂口の出場試合がNETテレビでも放送されるようになり、さらに猪木のクーデター以降はそのバランスが崩れることになった。日プロは取締役会で、取締役の一人だった馬場自身の反対を他の取締役が押し切る形で、NETテレビで放送される試合に馬場を出すという判断をし、日本テレビ及びスポンサーだった三菱電機に恩義を感じていた馬場は、1972年7月29日に辞表を提出した。その後も長年NETテレビおよび同局の後身のテレビ朝日への出演は少なく、最晩年の『徹子の部屋』、『ニュースステーション』(『最後の晩餐』)などの数本のみである。一方テレビ朝日系列局制作の番組には、『探偵!ナイトスクープ』(朝日放送テレビ)などへの出演があった。
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