阻止作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/30 23:32 UTC 版)
ノルウェー沿岸で軽巡洋艦シェフィールド、駆逐艦ソマリ、マシオナ、マタベレ、アフリディ、シーク、モホークと共に活動していた軽巡洋艦グラスゴーのF・H・ペグラム(en)大佐は、1940年4月13日に、上陸に先立つ調査のためナムソスにイギリス海兵隊などからなる小規模な部隊を上陸するよう命じられた。上陸部隊はエッド大佐が率い、4月14日に上陸後、町の郊外にある丘で防衛位置を確保し始めたが、すぐにドイツ空軍の航空機をひきつけることとなった。 最初の上陸が成功すると、素早く兵力を増強するため、既に出港しナルビクへ向かっていた部隊が転用されることになった。それは第146旅団で、輸送船エンプレス・オブ・オーストラリアとポーランドのホロブルィ(Chrobry)に乗っていた。 また、エイドリアン・カートン・デ・ウィアート中将が4月14日に北西遠征軍の指揮官に任命指名され、4月15日にショート サンダーランド飛行艇でナムソスに向かった。デ・ウィアートは着水時にドイツ軍機による銃撃を受けた。同行していた彼の部下は負傷したため、イギリスへ帰国しなければならなかったが、デ・ウィアートは空爆の間、その勇敢さによって配下の部隊を奮起させた精力的で有能な指揮官であった。しかし、連合軍の航空機はドイツ空軍に対抗してナムソス上空の援護に使用することができなかった。 ナムソスの港湾設備は不十分であり空襲による危険が大きいため、兵員は一旦輸送船から駆逐艦に移してからナムソスに向かったほうが良いとの駆逐艦ソマリ艦長の提案が採用され、兵員は100マイル北方のネースナ(en)のLillesjonaで輸送船から駆逐艦に移されることになった。4月16日に輸送船から駆逐艦アフリディ、シーク、マタベレ、マシオナ、ヌビアンへの移送作業が開始されたが、その途中でドイツ軍機による攻撃を受けた。被弾した艦はなかったが、移送作業が途中のまま駆逐艦はナムソスへと向かった。デ・ウィアート以下将校36名、兵員1,208名を載せた駆逐艦は、同日中にそれらをナムソスとBangsundに上陸された。
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