密勅の疑問点
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 04:52 UTC 版)
律令制が完全に崩壊して久しい江戸時代にあっても、天皇が「詔書」を発するには、律令に定められた以下の手続きを経る必要があった。 中務省の内記が草案を作成し、天皇が一旦それに日付を加える(御画日)。 中務省の責任者3名(卿・大輔・少輔)が内記の記した官位姓の下に自署を行い、それぞれの下に「宣」「奉」「行」の一字を記す。これを「案文」と称する。 案文の複製を成案の草案として作成して再度中務省の責任者の署名を加えて天皇御璽(内印)を押印した後に太政官に送付し、今度は外記が大臣・大納言の官位姓を記して日付を加える。 草案は、天皇への奏請の一文とともに太政官の会議にかけられて太政大臣以下の大臣・大納言の自署を加えた後に大納言が天皇にこれを覆奏する。 天皇は覆奏された草案の年月日の横に「可」の字を記入する(御画可)。ここで成案の草案は正式な詔書となる。 更にこれの複製を作成するとともに弁官によって詔書の実施を命じる太政官符が作成される。ここで詔書の内容が宣命として口頭で伝達される(誥)とともに太政官符が交付されて詔書が発効するのである。 上記の詔書の正式な発布手続きと討幕の密勅を比較すると、密勅は御画可、御璽を欠き、太政官の主要構成員の署名がなされていない。即ち、密勅は正式な詔書ではない。このように、密勅は佐幕派の摂政二条斉敬(なりゆき)らを回避して作成され、手続き上、厳密には詔書ではないので、同じく佐幕派の関白九条尚忠を回避した安政5年(1858年)の「戊午の密勅」の場合と同様、「詔(みことのり)」や「詔勅」ではなく「密勅」と称されている。 また、正親町三条の解説によれば、密勅は綸旨である。詔書と比べて手続きの簡易な綸旨は、天皇に近侍する者がその意を受けてこれを対象者に伝える奉書形式の文書であり、文末は『〜者(てへり)=(〜と言へり)』つまり『~という天皇の命令である』という伝聞形式をとる。討幕の密勅は、天皇の願いを聞いた中山忠能・正親町三条実愛中御門経之の3名が連名でそのまま天皇の意向を「朕(天皇)」の立場(一人称)で薩長の藩士たちに伝えるという形をとるが、主語が「朕」で、「詔す」として天皇が直接命令する詔書の形式でもあり、密勅は伝聞形式とも言えない。つまり密勅を綸旨とする説明にも無理がある。 このように密勅は極めて異例の形式であるため、従来より偽勅説が唱えられてきた。佐々木克は、この詔書はもともと模擬文書であり、必要な場合は「このような勅命を出すことが可能だ」ということを保証する「サンプルのようなもの」という説を提唱しており、青山忠正はこの説を「最も明快で、説得力がある」と評価している。 密勅を京で直接受け取った薩長の藩士たちは、広沢兵助(広沢真臣)・福田侠平・品川弥二郎・小松帯刀・西郷吉之助(西郷隆盛)・大久保一蔵(大久保利通)の6名による連名で、「討幕の密勅薩長連衡御請誓書」という共同返答書を、中山忠能・正親町三条実愛・中御門経之・岩倉具視の4名に宛てて共同提出している。
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