プロ柔道とは? わかりやすく解説

国際柔道協会

(プロ柔道 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/09 18:44 UTC 版)

国際柔道協会(こくさいじゅうどうきょうかい)とは、かつて存在した日本柔道興業団体。いわゆるプロ柔道である。国際プロ柔道協会と呼ばれることもある。なお、国際オリンピック委員会に加盟している柔道の国際競技連盟である国際柔道連盟と関係は無い。

旗揚げまでの経緯

太平洋戦争後、柔道はGHQによって日本の民主化推進及び軍国主義払拭との観点から禁止となり、学校教育からも排除されるなど逼塞状況にあった。講道館はそうした状況に対し、1949年昭和24年)5月に全日本柔道連盟を設立、同年10月には日本体育協会に加盟して国民体育大会に参加、プロとアマの区別を明確に規定する、など柔道の体育化、スポーツ化を志向して学校教育復帰の道をめざし、1950年(昭和25年)には新制中学校の選択科目に柔道が採用されるようになった。

こうした動きとは逆に武道としての柔道の復興、及び、生活に困窮していた柔道家の生活基盤を構築することを志向する柔道家の牛島辰熊は柔道の興行化、プロ化を企画し、中心となって動き出した。

1950年(昭和25年)3月2日、国際柔道協会の結成式が開かれた。飯塚国三郎十段を顧問、会長に杉浦和介、理事長に森岡秀剛、理事に牛島辰熊や寺山幸一という布陣であった。またスポンサーとして高野建設(のちの前田道路)社長の高野政造(のちに会長)などがいた。参加選手は牛島の弟子であり、牛島が直接口説いた1949年全日本柔道選手権者の木村政彦を始め、山口利夫遠藤幸吉出口雄一高木清晴、坂部保幸ら柔道有段者計22名(のち4人が脱退し18人)[1]であった。

同年4月16日東京の芝スポーツセンターで旗揚げ戦が行われた。決勝の試合は木村と山口の対戦となり、木村が山口を崩上四方固で抑え込み、初代全日本プロ柔道選手権のタイトルは木村のものとなった。木村には内閣総理大臣賞が贈られた。講道館館長の嘉納履正も観戦に訪れ、機関誌『柔道』にはコメントを載せた。作家の増田俊也はこれを「奨励」と表現している[2]

活動内容

プロ柔道は「見せるための柔道」[3]として、従来の柔道では禁じ手となっていた、指、足首、手首、肩などへの関節技胴絞抱上からのスラムが認められていた。判定・引き分けを無くし、柔道着に赤い3本の線を入れる、などの工夫がなされたものであった。ライターの増田俊也によると首、膝への関節技は禁止されていた[4]。一方で書籍『秘録日本柔道』は膝への関節技は解禁になったとしている。また指関節技で認められていたのは二本か三本以上の指を取った場合のみだったとしている[5]。「技あり合せて一本」は認められていた。

本拠地を池袋に置いた国際柔道協会は、東京の芝スポーツセンター旗揚げ戦の後、静岡を振り出しとして、北海道に至るなど、地方を巡業して回った。1950年5月27日には静岡県三島市で興行、7月17日18日には北海道旭川市で興行、7月29日30日には函館市で興行が行われた。

9月24日静岡市での興行について述べると、通常の試合以外に、会場で木村に対して挑戦者を募り、もし試合で木村に勝つことが出来れば賞金を贈呈するという試合、いわゆる賞金マッチが行われたりした。また、映画俳優の若原雅夫津島恵子鶴田浩二たちや歌手たちが参加して歌や踊りのあるエンターテイメント性あふれるアトラクションが開催されたりした。

9月30日には後楽園競輪場で興行が行われた。

この間、松竹の映画『春の潮』とコラボレーションし、木村と山口が本人役、他の選手もエキストラとして映画に出演[6]するなどしたが、巡業における集客は必ずしも成功と言えるものではなかった。また、スポンサーであった高木建設がスポンサーから下りるなど、国際柔道協会は窮地に追い込まれ、選手への給料の支払いが滞るようになっていった。

崩壊とその後

給料の支払いが滞るなか、6月末に米国柔道協会によるハワイでの巡業の要請がエースである木村に打診された。山口、坂部も同調し、3人は国際柔道協会を脱退してのハワイ行きを決めた。国際柔道協会は裁判に訴えるなど、脱退組と衝突し、団体は混乱状態に陥った。こうした環境の中、10月以降の活動は見られず、団体は発足から一年も持たず、解散となった。

団体崩壊後、アマチュアの柔道家に戻るものや、柔拳興行(柔道とボクシングの興行)に参加するものもいた。また、木村、山口、遠藤、高木(月影四郎)、出口(ミスター珍)らのようにプロレスラーとなったものがおり、プロレス団体として、木村は国際プロレス団国際プロレスとは別団体)を、山口は全日本プロレス協会全日本プロレスとは別団体)を後に設立するなどした。

脚注

  1. ^ 塩見俊一「戦後初期日本におけるプロレスの生成に関する一考察」p.117
  2. ^ 増田俊也木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか新潮社、日本(原著2011年9月30日)、288頁。「これは容認どころか奨励である。」 
  3. ^ 塩見俊一「戦後初期日本におけるプロレスの生成に関する一考察」p.117より、理事長である森岡のコメント
  4. ^ 増田俊也木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか新潮社、日本、2011年9月30日、275頁。「関節技の場合頸椎及膝関節は禁ず。」 
  5. ^ 工藤雷介『秘録日本柔道』(第1刷)東京スポーツ新聞社、1973年5月25日、310頁。 
  6. ^ 塩見俊一「戦後初期日本におけるプロレスの生成に関する一考察」p.119

参考文献


プロ柔道

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1・2の三四郎 2」の記事における「プロ柔道」の解説

競技人口が多いにもかかわらず柔道家4年一度しか表に出るチャンスが無いことに疑問抱いた柳政紀が、自らの理想持って柔道家受け皿になるべく立ち上げた。かつて存在したプロ柔道を手本としており、アマ柔道家プロ挑戦できるコーナープロ勝った10万進呈)とプロ柔道トーナメントの2本立て興行を行う。まだ出来たばかりでそれほど知名度は無いが、気軽に見られる雰囲気と、元人気レスラー知名度から会場はなかなかの盛り上がり見せていたが、エースである赤城敗れた為、評価急落し単独興行休止せざるを得なくなったその後所属選手ドリームチーム吸収されドリームチーム興行の中でプロ柔道の試合行っている。 柳 政紀(やなぎ まさのり) 現プロ柔道代表。プロ柔道世界チャンピオン。元超高校級柔道選手オリンピック候補だったが、高校時代柔道大会で素人参加だった三四郎負けそれ以来三四郎終生ライバル認め後を追ってプロレス入り柔道殺法噛み付きなどのラフファイトで五頭と肩を並べ新東プロ看板選手だった。新東プロ崩壊後都合7年間に渡りプロレス続けてたようだが、新たに長年の夢だったプロ柔道を旗揚げし、たまたま同じ会場翌日興行控えていた挨拶為に三四郎たちの元を訪れた。プロ柔道振興の為、命運をかけてFTO赤城挑戦状叩き付ける得意技は、「スペシャル(腕取り回って体落とし投げ。今で言う逆一本背負いに近い)」。過去にこの技の3連発馬之助失神させられことがある赤城戦では胴タックル狙いに来る戦略読まれ、わざと隙を作った赤城狙い澄ました鋭角的なエルボー叩き込まれ出血。それを皮切りに馬乗りなられた挙句非情なベアナックルパンチを容赦なく頭部浴びせられ試合開始から僅か59秒でTKO負け追い込まれる。その重いダメージにより、一時植物人間となってしまうが、三四郎赤城戦で三四郎闘気伝わったのか、意識取り戻す。妻と二人の息子がおり、そのうち長男竜一はオコノミマンのファンだが、正体馬之助である事は知らない金田 麻男(かねだ あさお) プロ柔道所属選手高校時代三四郎参加した柔道大会で三四郎対戦し破った男。おかっぱ頭でいつも名前を「キンタマオトコ」と呼ばれてその度訂正するのが定番登場仕方(プロ柔道の興行では複数観客から「キンタマオトコ」コールがあり、一般に愛称として定着している模様)。後にオリンピック銀メダル獲得し大学先生をしていたが、次のオリンピック予選判定負け喫し目標見失っていたところをからプロ柔道旗揚げ誘いを受け、その姿勢共鳴しプロ柔道選手となる。倒してプロ柔道世界チャンピオンになるのが夢。プロ柔道が活動休止した際、美鈴厚意ドリームチーム世話になる外見とぼけた感じだが相当の実力者であり、田中プロレスとの対抗戦で、受身取れない背負い投げプロレスラー失神させた。 ピーター・キンタマニーオランダオリンピック代表候補のプロ柔道選手。名前のインパクトがかなり強烈で名前を読み上げようとしたリングアナウンサー絶句させたり、また三四郎馬之助達はズッコケてしまい、「な、なんなんだねキンタマニーとは!!」「(対戦相手金田麻男だけに)これじゃあ日本オランダキンタマ対決やがな!!」と突っ込み入れている。しかし実力本物でプロ柔道トーナメントでは1回戦金田麻男から足払い掛けられる公式戦では一本勝ちだが、プロ柔道では無効との事)も、逆にアンクルロック仕掛けて逆転ギブアップ勝利を飾ってからはそのまま優勝果たした次回との対戦を得るが、赤城戦を優先させたため、作中では未対戦。ハンサムで日本にも追っかけファンがおり、躊躇なく「キンタマニーコール」を送っている。金田同様、プロ柔道が活動休止となった際、ドリームチーム世話になり、田中プロレスとの対抗戦にて対戦相手プロレスラー圧勝するチョチョンマンチ・マキチョチハ 身長2mを越すロシアの元無差別級チャンピオンの持つプロ柔道世界タイトルマッチ挑むも、スペシャルを喰らいあっさり敗北。結構インパクトのある名前のようで、馬之助は「こんな名前のロシア人ホンマにおるんかいな?」と呟いている。 淀橋 亀夫(よどはし かめお) アマチュア柔道家で、2段腕前を持つ。アマ柔道家プロ勝った10万贈呈するコーナーに「よ~し、10万円はいただき!!」と宣言して意気揚々と挑戦しようとするも、試合前に稽古一環としてやらかした辻斬り」ならぬ「辻投げ」の被害者男性から通報受けた警察官達に強制連行され、出場が叶わなかった。

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