プロ格闘家時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/10 15:22 UTC 版)
正道会館で実力を付け始めたワットは、ボクシングやK-1、キックボクシングに挑戦を続けた。 1992年3月5日、リングスに提携した正道会館勢の1人として、尼崎市記念公園総合体育館で初参戦を果たした。ハンス・ナイマンと対戦し時間切れ引き分けに終わる。しかし、リングス有明大会「光臨」では初来日したピーター・アーツとキックボクシングルールで対戦。2R2分42秒肘打ちでKO負け。 1993年4月30日、リングスの興行「後楽園実験リーグ '93 Round2」に参戦。レガースや肘パット等の着用が義務付けられた特別キックルールで、当時シュートボクシング重量級のエースであった岩下伸樹(龍生塾)と対戦。1R1分56秒でKO勝利。パンチを振り回しながら前に出たところに、バックハンドブローをまともに食らってしまった岩下は鼻骨を骨折し大流血、しばらく立つことが出来なかった。 1993年9月4日、『K-2 GRAND PRIX '93』に参戦。1回戦でボブ・ゼンキフォーにKO勝ち。準決勝でアーネスト・ホーストにTKO負け。 1993年12月19日、『K-1 ILLUSION』でジェラルド・ゴルドーと対戦。2R2分7秒、右バックブローでKO勝ち。 1995年8月24日、シュートボクシング「S-cup Thunder and lightning」でマンソン・ギブソンと対戦し、判定勝ち。 1995年10月27日、シュートボクシング『S-cup BOMBER!!』で、ビル・ラスファーに2R3分40秒右ハイキックでKO勝ち。シュートボクシング世界スーパーイーグル級王座を獲得。 その後、国際式ボクシングに転向し、1999年9月17日、OPBF東洋太平洋クルーザー級王座を獲得した。 2000年10月17日、ジョニー・ネルソンの持つWBO世界クルーザー級王座に挑戦するも5RKO負け。 2001年4月29日、『K-1 WORLD GP 2001 in OSAKA』でK-1復帰。初戦でワットより20㎏以上重いレイ・セフォーに敗れるが、勝ったセフォーが腰部筋挫傷を起こし準決勝を棄権したため、ワットが準決勝進出。「自分も足を痛めていたので試合をすべきか迷った」と語っていたが、準々決勝でピーター・グラハムから左フックで2度ダウンを奪い1RKO勝利した。決勝戦でジェロム・レ・バンナと対戦するが、セフォー戦以上の圧倒的な体格差(26kg差)により敗れて準優勝に終わった。ワットはK-1トップファイター達と対戦して技術差は感じなかったものの、明らかな体格差による不利を感じたと語り、ボクシングのクルーザー級に戻る可能性も示唆したが、大会終了後に肉体改造を決意。以降は10㎏以上体重を増加させて戦うことになる。 2001年10月8日、『K-1 WORLD GP 2001 in FUKUOKA』に参戦。肉体改造を行い体重を増加させたワットは準決勝でWBFのボクシングタイトルを保持していたマイク・ベルナルドと対戦。1R芸術的なカウンターの左フックでダウンを奪うと、そのままラッシュを仕掛け再度ダウンを奪いKO勝ち。K-1トップファイター相手に大きな勝利を得た。 同日、決勝戦でマーク・ハントと対戦。2Rにベルナルドを一撃で倒したカウンターのフックを完璧にヒットさせるが、直後に右フックでダウンを奪われた。2Rに2回、3Rに1回と計3度のダウンを奪われるが立ち上がり健闘するも、最後はハントのパンチで額から出血。ダウンした際にドクターチェックが行われて無念のドクターストップ。またしても、準優勝に終わった。 2001年12月8日、『K-1 WORLD GP 2001 決勝戦』では、GPのリザーブマッチでマイク・ベルナルドと再戦。3R終盤にローキックでダウンを奪われ、判定3-0で敗れた。この試合は2週間前という急オファーを受けたために体重等も含めたコンディションを作れなかったことが敗因だと試合後のインタビューで述べた。 2002年2月18日、K-1 オセアニアGPのトーナメントに参戦して、一回戦でクレイ・アウミタギに2RKO勝ち、ジェイソン・サティーに3R判定勝ち、決勝ではアンドリュー・ペックに1RKO勝ち。K-1オセアニアトーナメントを制覇した。 2002年8月7日、『K-1 WORLD GP 2002 in LAS VEGAS』のトーナメントに参戦。準々決勝でパヴェル・マイヤーに判定負け。
※この「プロ格闘家時代」の解説は、「アダム・ワット」の解説の一部です。
「プロ格闘家時代」を含む「アダム・ワット」の記事については、「アダム・ワット」の概要を参照ください。
プロ格闘家時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/10 22:37 UTC 版)
2005年12月18日、格闘技団体「R.I.S.E.」が主催する「R.I.S.E. DEAD OR ALIVE TOURNAMENT '05」に出場。1回戦で我龍真吾を3R判定3-0で下し、続く準決勝で水谷秀樹からダウンを奪い3R判定3-0で下すと、決勝戦で白虎を1Rに右ローキックでKOし優勝した。優勝決定後、リング上でK-1参戦を宣言。試合を見ていた谷川貞治K-1イベントプロデューサーも好評価した。 2006年2月4日、K-1デビューとなった「K-1 WORLD MAX 2006 〜日本代表決定トーナメント〜」に出場。1回戦で山本優弥をTKO、準決勝でHAYATOを判定でそれぞれ下したが、決勝では佐藤嘉洋に判定負けし、準優勝となった。 2006年9月4日、「K-1 WORLD MAX 2006 〜世界王者対抗戦〜」でマイク・ザンビディスと互角に打ち合うも判定負け。試合後、「判定は納得してないです。パンチは少しもらいましたけど、自分のパンチも当たっていたんで正直、延長かなと思いました。」とコメントした。 2007年2月5日、「K-1 WORLD MAX 2007 〜日本代表決定トーナメント〜」に出場。1回戦でHAYATO、準決勝で安廣一哉をそれぞれ判定で下したが、決勝では去年と同じ顔合わせとなった佐藤嘉洋にKO負けし、2年連続で準優勝となった。 2007年4月4日、「K-1 WORLD MAX 2007 〜世界最終予選〜」でアルバート・クラウスと対戦し、判定勝ちを収めた。しかし、この判定に関しては疑問の声が多数あり本人達も納得していない。また、谷川は「本人が一番わかっていると思う。魔裟斗選手も全日本キックの頃、人を倒せない時期があった。TATSUJI選手はその辺を越えないと、世界に行っても活躍できない。」と、決定力不足を指摘した。 2007年6月28日、「K-1 WORLD MAX 2007 〜世界一決定トーナメント開幕戦〜」でアンディ・オロゴンと対戦し判定勝ち。その後、7月27日付けでK-1競技統括委員会から「打ってはクリンチをするという戦法がK-1ファイターらしからぬ戦い方」と警告された。 2007年9月30日、「SHOOT BOXING 2007 無双 〜MU-SO〜 其の四」で宍戸大樹にダウンを奪われ判定負けを喫した。 2008年2月2日、K-1 WORLD MAX 2008 〜日本代表決定トーナメント〜に出場。1回戦で前田宏行と対戦。前田相手に真っ向からパンチで打ち合い、1RKO負けを喫した。 2009年2月23日、K-1 WORLD MAX 2009 〜日本代表決定トーナメント〜に出場。1回戦で3年ぶりの再戦となる山本優弥と対戦。序盤的確にパンチをヒットさせるも、決め手を欠き延長R判定負けを喫した。 2009年4月21日、K-1 WORLD MAX 2009 FINAL16のオープニングファイトで龍二と対戦し、判定勝ち。 2009年11月22日、RISE 60で行われたHAYATOの引退試合で対戦し、判定勝ち。 2010年3月27日、K-1 WORLD MAX 2010 〜-70kg Japan Tournament〜の1回戦で中島弘貴と対戦し、2Rに2回のダウンを喫しKO負け。 2011年2月、引退を表明し、RISE74(後楽園ホール)で引退セレモニーを行った。
※この「プロ格闘家時代」の解説は、「TATSUJI」の解説の一部です。
「プロ格闘家時代」を含む「TATSUJI」の記事については、「TATSUJI」の概要を参照ください。
- プロ格闘家時代のページへのリンク