BI砲の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:14 UTC 版)
1966年には、かねてから力道山の後継者と目された馬場が、復活したインターナショナル・ヘビー級王座を連続防衛し、エースとなる。1967年、東京プロレスから復帰した猪木とタッグを組み「BI砲」と呼ばれ、力道山死去で一時低迷した人気は、また黄金期の人気を取り戻すようになる。 また、当時東京プロレスへ移っていた猪木の穴を埋めるべく、世界柔道選手権大会日本代表であった坂口征二を獲得。大木金太郎、吉村道明、山本小鉄、星野勘太郎らが脇を固める充実した選手層を誇った。 日プロは長らく日本テレビが『三菱ダイヤモンド・アワー・プロレスリング中継』の番組名で中継していたが、NET(現:テレビ朝日)が参入を希望した。経営陣は収入面から歓迎したが、先行の日本テレビに配慮して「馬場及び坂口の試合を放映しない」「ワールド大リーグ戦の試合を放映しない」ことを条件にして参入を認め、1969年より2局放送体制となる。人気No.1の馬場の試合を中継できないNETは『ワールドプロレスリング』の番組名で、No.2である猪木、大木らを中心とした番組を組んだ。
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