昭和後期、BI砲の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 04:25 UTC 版)
その後、日本においては力道山の率いる日本プロレスの独占市場であったが、力道山の死去後、東京プロレスと国際プロレス(いずれも現在は消滅)が相次いで旗揚げして、さらに力道山の死去後の日本のプロレスを支えていたアントニオ猪木が新日本プロレスを、そしてジャイアント馬場が全日本プロレスを旗揚げして両エースを失った日本プロレスは崩壊する。しばらくの間は上記の2団体と当時は健在だった国際プロレス、そして女子プロレス団体である全日本女子プロレスの4団体時代が続くことになる。1970年代以降、猪木はプロレス最強を掲げてウィレム・ルスカ、モハメド・アリらと異種格闘技戦を行い、馬場もNWAとのコネクションから多くの大物外国人レスラーを招聘しそれぞれ人気を獲得。国際プロレスもヨーロッパ路線とデスマッチ路線を展開して独自のファン層を開拓した。 1980年代に入ると馬場の弟子であるジャンボ鶴田、天龍源一郎、猪木の弟子である藤波辰巳、長州力らいわゆる鶴藤長天が台頭する。また、新日本プロレスでは藤波らや、佐山聡がタイガーマスクとしてデビューして、それまでヘビー級の過渡期として位置付けられていたジュニアヘビー級をヘビー級から独立した独自のカテゴリーとして、その礎を築いた他、子供層の取り込みに成功して、人気を更に増した。 1984年にはUWFが旗揚げされ、ショー的要素を排除したシュートスタイル(のように見せかけた)のプロレスを確立して、後の総合格闘技の台頭への布石となった。 1981年に国際が消滅したため、昭和末期の段階では新日本プロレス、全日本プロレス、全日本女子プロレスに1988年設立の第2次UWFが4大団体という体制になっていた。 なお、昭和後期には上記の4大団体以外に興行を行う組織はほとんど存在せず、これらのプロレス団体に入門しれ、実際にプロレスラーとして試合のリングに立つ事は大変に狭き門であった。 こうした状況の中で、1970年代の初頭から日本各地の大学にプロレスの同好会が設立されて、1978年頃より実際のプロレス形式の試合を行う学生プロレスへと発展している。同時期、学生プロレス初期のOB達が中心となり、社会人になった後も活動を継続するアマチュア・プロレス(社会人プロレス)の動きも始まっており、1978年8月には日本初の社会人プロレス団体であるJWA関西が設立、1980年代にはJWA関西の傘下団体は全国各地に広がっていき、後のインディー団体乱立時代の布石となっていった。一方、4大団体以外の小規模団体でプロレスラーとしてデビュー出来たとしても、その団体が活動を停止すると直ちに廃業に追い込まれる事例や、4大団体所属レスラーであっても人員整理に伴う解雇で引退に追い込まれる例も散見されていた。 1986年にジャパン女子プロレスが設立される。同団体は山本小鉄やグラン浜田ら男子プロレスラーをコーチとして招聘していたが、プロレス団体経営陣として参画していた新間寿は1988年に男女混合団体化(格闘技連合)を目指して浜田と大仁田厚の遺恨アングルを実行して、12月3日にジャパン女子プロレスの興行のメインイベントという形で浜田対大仁田戦が行われた。この時のジャパン女子プロレスのファンや所属プロレスラーらの反対の声により、混合団体化の計画は頓挫するが、この時の関係者が中心となり、後のFMW設立へと繋がっていく事になる。
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