旗揚げ - 東京プロレスとの業務提携
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「国際プロレス」の記事における「旗揚げ - 東京プロレスとの業務提携」の解説
創業者の吉原功社長は、早稲田大学レスリング部出身の元プロレスラーで、日本プロレスの営業部長を務めていた。しかし、力道山の死後、経理担当取締役の遠藤幸吉とリキ・スポーツパレスの売却問題を巡って対立。1966年10月5日に日本プロレスを退社し、新団体の国際プロレス(インターナショナル・レスリング・エンタープライズ株式会社)を設立。創業当初は陣容が手薄だったこともあり、旧来の「団体」という形ではなく、シリーズごとに選手と出場契約を交わし、試合をするリングのみを提供するという、アメリカのプロレス業界と同様のフリーランス・システムを提唱、プロダクション的な「興行会社」のスタイルを志向していた。同年10月24日の役員人事発表の際にも、吉原は「団体間で潰し合うことはせず、日本プロレス界の発展に尽力したい。プロレスは相撲の社会とは違う。アメリカと同様のスタイルのスマートな団体とする」などと会見。そのため、当初は日本プロレスにも協力を求めていたが、日本プロレス側はこれを拒絶、この構想は機能することなく、自前の所属選手を抱えて興行を打つ従来型のプロレス団体への転換を余儀なくされた。なお、日本のプロレス団体で最初に所属選手の契約書をつくったのは国際プロレスである。 アメリカで活躍する日本人レスラーのヒロ・マツダをエース兼ブッカーとし、日本プロレスからマツダの日体荏原高校時代の後輩であるマティ鈴木およびアマチュアスポーツのトップアスリートだった杉山恒治(サンダー杉山)と草津正武(グレート草津)を同道。旗揚げに際しては、国際プロレスに先んじて旗揚げしたものの興行不振で単独での興行能力を失っていた東京プロレスからアントニオ猪木らが参加し、合同興行の形で『パイオニア・シリーズ』と銘打たれた旗揚げシリーズを1967年1月に開催。合同興行とはいえ主催は国際プロレスで、東京プロレス側にギャランティーを支払うという形で話がまとまった。ダニー・ホッジ、ザ・ケンタッキアンズ(ジェイク・スミス&ルーク・ブラウン)、エディ・グラハム、ジョニー・バレンタインを招聘し、アメリカでもコンビを組んでいた猪木とマツダのタッグや、アメリカンサイズのリング、タレントによるリングアナウンスなどの演出も注目を集めたが、テレビ局との放映契約を結べなかったこともあり、興行は振るわず東京プロレスとの提携もこの旗揚げシリーズのみで破綻する形となった。当初、マツダのブッキングでホセ・ロザリオ、ターザン・タイラー、スプートニク・モンロー、ボブ・オートンなどを招聘して春に旗揚げ第2弾シリーズを行う予定であったが、これらの諸事情により中止となった。 国際プロレスと決別後の東京プロレス残党のうち、猪木は永源勝(永源遙)、北沢幹之、柴田勝久らと日本プロレスへ帰参したが、木村政雄(ラッシャー木村)、寺西勇らは国際プロレスに残留。猪木らの離脱と入れ替わるように、旗揚げ興行に参加しなかった豊登が国際プロレスに参戦し、マツダとのタッグが看板チームとなった。 しかし、戦力、資金、テレビ中継の有無でも日本プロレスとの差は歴然とし、1967年8月14日に大阪で行われた日本プロレスとの興行戦争(日本プロレスは大阪球場、国際プロレスは大阪府立体育館で、それぞれ開催。日本プロレスのメインイベントはジャイアント馬場対ジン・キニスキーのインターナショナル・ヘビー級王座戦、国際プロレスのメインイベントはヒロ・マツダ&サム・スティムボート対ロジャー・カービー&ビル・ドロモ戦)は「大阪夏の陣」として話題となったが、宣伝において飛行機によるビラまき作戦などを駆使して2万人の観衆を集めた日本プロレスに対し、国際プロレスは4200人の観客動員で終わるなど、興行面で惨敗してしまう(興行の開催は国際プロレスが先に発表しており、日本プロレスが、それに対抗して戦争を仕掛けた形となった)。
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