1809年以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 21:30 UTC 版)
1809年、ロシア帝国軍の猛攻の前にスウェーデンは降伏し、フィンランドはフレデリクスハムンの和約においてロシア領に組み込まれた(ロシア・スウェーデン戦争)。そして北欧諸国家の中にロシアという「異質な」国家が入り込んだことにより、ラップ追加条項は事実上その意味を失い、特に「山岳サーミ人」の遊牧生活は窮地に立たされた。またこれに追い討ちをかけるように1852年にはノルウェーとフィンランドの国境が、1888年にはスウェーデンとフィンランドの国境が閉鎖されてしまう。当時、スウェーデンはノルウェーと同君連合を組んでおり(スウェーデン=ノルウェー)、ノルウェーの国境線はロシア領に複雑に食い込んでいた。ロシアに対する安全保障は、クリミア戦争を挟んで切実な問題となったため、スウェーデン政府は1855年にイギリス及びフランスと「11月条約」を締結し、連合王国領土と漁業権をロシアに譲渡しないことを誓約した。 ロシアの統治下においても、サーミ人は納税の義務を課されていたが、議会に参加することは許されなかった。代表のいない議会においてサーミ人の権利が議論され、その結果、サーミ人と土地、水使用権は全く無視される事態になった。さらに、サーミ人の狩猟文化の経済的基盤は、トナカイやビーバーといった狩猟動物が乱獲されたことにより完全に打ち壊された。そして、狩猟動物の減少に伴い「ラップ税」の納税が不可能となり、ついに1924年、完全に廃止された。これは同時に、彼らの権利の縮小にもつながっていった。 以後、サーミ人の課税対象外の土地を求めての移住と、それらの土地を「公地」化しようとする動きが繰り返された。 第二次世界大戦後、スコルトサーミ人の土地が旧ソ連に割譲され、その結果、スコルトサーミ人の大多数がフィンランドに移住した。
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