1809年のフンタ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/14 15:19 UTC 版)
「ボリビア独立戦争」の記事における「1809年のフンタ」の解説
「チュキサカ革命(英語版)」も参照 スペインで半島戦争が勃発すると、イベリア半島はほぼ無政府状態に陥ったが、チャルカスでもスペインの情勢に関する情報がもたらされた。1808年3月17日のアランフエス暴動(英語版)と5月6日のバイヨンヌの譲位(英語版)(スペイン王フェルナンド7世が退位してジョゼフ・ボナパルトに譲位した事件)の報せがそれぞれ8月21日と9月17日と1か月内に届いたことで、不安が増大した。続く混乱の中、スペインでフンタが次々と成立、さらにフェルナンド7世の姉でポルトガル王太子妃のカルロッタ・ジョアキナ・デ・ボルボンがブラジル(英語版)滞在中、米州に対する権利を主張した。 11月11日、セビリアのフンタを代表するホセ・マヌエル・デ・ゴイェネチェ(英語版)がブエノスアイレス滞在ののちチュキサカに到着、チャルサカにセビリアのフンタの権威を認めさせようとした。また、フェルナンド7世の不在時にカルロッタ王女が統治する権利の承認を求める王女の手紙をもっていた。チュキサカ司教ベニート・マリア・モソ・イ・フランコリ(スペイン語版)を後ろ盾としたプレシデンテのラモン・ガルシア・レオン・デ・ピサロ(英語版)は承認に前向きだったが、主に半島人で構成されたアウディエンシアは承認が早急すぎると考えた。古参オイドール(英語版)とゴイェネチェの間で乱闘があやうくおきるほどだったが、結果的にはオイドールの意見が通った。急進派や革命派は権力がラテンアメリカ人の手に入る上、スペイン本国の難しい時期に「一時的に」スペインから分離できると考え、アウディエンシアの決定を支持した。その後の数週間、ピサロとモソはスペイン帝国の統一を守るにはカルロッタの統治権の承認が最良という結論を出したが、これはチャルカス人とアウディエンシアには不評判である。アウディエンシアは自身の弱みを公的に認めたくなかったが、モソがスペインからの報せを市民に逐一報告したため、ピサロとモソはオイドールの支持を失った。モソとオイドールの間の関係緊張により、チャルカスのカトリック教会はアウディエンシアから遠ざかった。 1809年5月26日、アウディエンシアのオイドールはピサロがカルロッタを承認するためにオイドールの逮捕を計画しているという噂を聞きつけた。アウディエンシアは半島とチャルカスの無政府状態が進んだため、チャルカスが(スペイン本国からの委任ではなく)自身で政府を掌握すべきであると結論付けた。アウディエンシアはピサロを解任して政府をフンタに変え、1808年にスペイン各地で成立したフンタと同じくフェルナンド7世の名のもとに統治した。ラパスでも7月16日にクリオーリョが兵舎を襲撃、インテンデンテのタデオ・ダビラ(スペイン語版)とラパス司教を追放した(ラパス革命(英語版))。ラパスのフンタはスペイン当局とブエノスアイレス当局との関係をはっきりと断ち切った。ペルー副王ホセ・フェルナンド・デ・アバスカル・イ・ソウサ(英語版)はクスコのアウディエンシアのプレシデンテになったゴイェネチェ率いる兵士5千を派遣して反乱を鎮圧、首謀者たちは絞首刑か終身刑に処された。アウディエンシアは慈悲を乞うたほか、チュキサカ市が軍隊に蹂躙されて廃墟と化さないよう王党派と協議した。反乱は鎮圧されたが、自由への熱望が止むことはなかった。1810年5月にブエノスアイレスでプリメラ・フンタ(英語版)が設立されると、チャルカスはペルー副王領の支配下に置かれ、軍事占領の試みを数回退けた。 半島人が最良の政体、およびスペイン本国からの主張のうち承認するものをめぐって分裂したため、チャルカスの将来にほかの人々が付け入る隙を与えてしまった。クリオーリョはプレシデンテとアウディエンシアの不和をみて喜んだ。スペイン政府によって阻止された権力奪取の好機と見ていたのである。しかし、上流クリオーリョも3グループに分けられていた。1つは半島人の影響を強く受けており、変革を望まなかった。2つ目は独立政府を望んだ。3つ目は急進派であり、独立政府のみならず、さらなる社会改革も望んだ。中流階級のクリオーリョ、そしてメスティーソは情勢の推移に注目したが、指導者に欠いたためこの議論には精力的に参加しなかった。
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