1809年遠征
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「ウジェーヌ・ド・ボアルネ」の記事における「1809年遠征」の解説
1809年、10万人もの兵力を持つオーストリア軍がイタリアを攻撃した。イタリア軍の先頭に立ったウジェーヌは、最初のサチーレの戦いで敗退したが、すぐ後の鮮やかな20もの戦いで復讐を果たし、敵を撃退した。彼はウィーン近郊の大陸軍の司令部を管理していた。この輝かしい勝利の連続にはラーブの戦いが加わっている。ナポレオンは孫娘たちをマレンゴやフリードラントという愛称で呼んでいた。 1809年のオーストリア遠征において、ウジェーヌは初めて最高司令官を務めた。彼は4月5日にミラノを発ち、ヨハン大公がかなりの兵力でイゾンツォ川を渡るのに遭遇した。大公はピアーヴェ川で障害が発生したことに落胆せず、4月16日にもサチーレにいた。ジャック・マクドナル、ルイ・バラゲ・ディリエール、ガブリエル・バルブ、ポール・グルニエ、ジャン・バティスト・ブルシエら将軍たちに助けられ、すぐに彼は敵を押し戻し、ヴィチェンツァとバッサーノを押さえた。ピアーヴェの戦いで大公を下し、ケルンテン公国の山脈背面部にあるすべての要所を押さえた。 ハンガリー王国国境へ進撃を行っている最中、彼はオーストリアの将軍ヨーゼフ・イェラシッチ (fr) がヨハン大公と合流しようとしていることを知った。ニーダーエスターライヒとシュタイアーマルクとの自然国境にあたる、ゼンメリンクでの大陸軍との合流により、彼の軍団は数的有利を得た。ウジェーヌの攻撃で、イェラシッチは指揮下のすべての軍隊と武器を放棄することを余儀なくされた。1809年7月5日から6日にかけ、彼はヴァグラムの戦いに参加した。 我々はゼンメリンクを越える際のイタリア副王に驚きを禁じえない。彼が連れた兵士たちには敵よりも数多くの捕虜が含まれていたのである。 皇帝は副王の兵士たちについて有名な言葉を残している。『イタリア軍の兵士たちよ、私が設定した目標を見事に達成した君たちを歓迎する!君たちには非常に満足している。』(« Soldats de l'armée d'Italie, vous avez glorieusement atteint le but que je vous avais marqué, soyez les bienvenus! Je suis content de vous. »)
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