1809年の蜂起
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/18 14:03 UTC 版)
「フェルディナント・フォン・シル」の記事における「1809年の蜂起」の解説
市民の喝采、再び湧き起った愛国主義と、恐らくいくらかの過信がこの騎兵将校、シルの自己評価を過大にし、軍の指導部とは協議していない軽率な行動へと彼を導いた。ナポレオン・ボナパルトのドイツ支配に対し、1809年に予定されていた蜂起においてシルは重要な役割を果たすことになっていたが、彼はそれを待っていたくはなかったのである。息女のエリーゼを婚約させていたエルンスト・フォン・リュッヒェル (Ernst von Rüchel) 大将は偶然、シルのヒンターポンメルンの所領、ハーゼロイを訪れており、彼を思い留まらせようとしたが果たせなかった。第5次対仏大同盟戦争が勃発するとシルは4月28日、演習に向かうかのように自身の連隊を率いてベルリンを去る。街から1マイル離れた場所で彼は兵に演説し、高度な任務に基づいて行動しているかのように思わせた。即時の帰還を指示する司令部からの命令には従わなかった。 彼はそれからデッサウに向かうと5月2日に同市を占領した。そこで声明、『ドイツ人へ』(An die Deutschen)を印刷させている。 5月の初頭に届いた、オーストリアで発生した蜂起が鎮圧されたという知らせはシルの熱意に明らかな掣肘を加えた。しかし彼は、配下の士官に巻き込まれる形で5月5日、マクデブルク近郊のドーデンドルフ (Dodendorf) でマクデブルク守備隊の一部とともに、フランス軍にも大きな損害を強いた「ドーデンドルフの戦い」 (de:Schlacht bei Dodendorf) へともつれ込む。同日、ナポレオンの末弟でヴェストファーレン国王のジェローム・ボナパルトはシルの身柄に10,000フランの懸賞金を掛けている。フリードリヒ・ヴィルヘルム3世はシルの独断専行を厳しく批難した。 募兵に応じる若者たちによってなおも拡大していたシルの連隊はエルベ川の下流に向かい、そこでカール・ハインリヒ・ヴィルヘルム・アンティンク (Carl Heinrich Wilhelm Anthing) 少将率いるホラント軍およびデンマーク軍に追跡されつつシュトラールズントへ進んだ。ポーランド人とメクレンブルク (Mecklenburg) 人から構成されていた同地の守備隊もシルと対峙していたが、すでにダムガルテン (de:Damgarten) で打ち破られていたのである。
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