国民学校への改編
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:22 UTC 版)
「大阪市立吉野小学校」の記事における「国民学校への改編」の解説
1941年の国民学校令施行に伴い、大阪市内の各小学校では創立番号順の校名は廃止して地名などを取り入れた校名へと変更することになった。これにより、第三西野田小学校は大阪市吉野国民学校へ、第四西野田小学校は大阪市新家国民学校へとそれぞれ改称した。 大阪市は1943年4月1日付で、行政区の分増区や境界調整を実施した。この際に西野田地域の大半は、従来の此花区から新設の福島区へと移ることになった。一方で新家国民学校の校区内を此花区・福島区の境界が通ることになった。このため分区と同時に新たな行政区の境界にあわせる形で新家国民学校校区の再編を実施し、従来の新家国民学校校区のうち此花区側に残った地域は大阪市西九条国民学校(現在の大阪市立西九条小学校)校区へ編入されている。 太平洋戦争の戦局悪化により、1944年には学童集団疎開がおこなわれることになった。吉野国民学校の児童は広島県芦品郡へ、新家国民学校の児童は広島県深安郡へ、それぞれ集団疎開を実施している。
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