現代の学者の見解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 06:05 UTC 版)
宗教界におけるその評判にもかかわらず、現代の専門的な歴史家は一般にヤズィードに対してより好意的な見方をしている。ヴェルハウゼンによれば、ヤズィードは必要な場合にのみ実力行使に訴えていた穏やかな統治者であり、宗教的な伝統において描写されているような暴君ではなかった。さらに、ヤズィードは王子としての公務に対する関心を欠いていたが、カリフとしては「古くから存在する嗜好、すなわちワイン、音楽、狩猟、その他の娯楽を手放さなかったとはいえ、そのような無関心からは更生していたようにみえる」と指摘している。歴史家のヒュー・ナイジェル・ケネディ(英語版)の見解では、カルバラーとアル=ハッラでの惨事にもかかわらず、ヤズィードの統治は「功績を欠いていたわけではなかった」。また、ヤズィードはより長く生きていたならば風評が改善していた可能性があるが、その早期の死は「治世の初期の打撃」に対する汚名が定着する一因になったと述べている。イスラーム研究家のジェラルド・R・ホーティング(英語版)によれば、ヤズィードは父親の対外政策を継続しようとしたものの、ムアーウィヤとは異なり、下賜品や賄賂によって反対派を取り込むことはできなかった。ホーティングはヤズィードについて以下のように要約している。「ムアーウィヤが伝統的な中東地域における専制君主というよりも部族のシャイフのように機能していたという印象は… ヤズィードにも当てはまるように思われる」。一方、バーナード・ルイスの見解では、ヤズィードは「父親の能力の多くを備えた」有能な統治者であったが、後のアラブの歴史家によって過度な批判に晒されたとしている。アンリ・ラメンスもヴェルハウゼンと同様の見解を示し、「詩人であり、音楽を愛し、詩人や芸術家たちにとってのマエケナスだった」と述べている。 750年に打倒されたウマイヤ朝の歴史を記したアッバース朝時代のイスラーム教徒の文献におけるヤズィードの性格面の描写は、アッバース朝のウマイヤ朝に対する敵意に影響を受けていたと考えられている。伝統的なイスラーム教徒の史料におけるほとんどの記録はヤズィードに対する反乱に焦点を合わせており、大抵においてシリアにおける公人としての生活と反乱の鎮圧以外の活動についての詳細を欠いている。これについてアンリ・ラメンスは、ヤズィードの下でフサインが殺害され、イスラームの聖地が攻撃されたことに関して、イラクを拠点とするアッバース朝時代の年代記作者がヤズィードを不信心な大酒飲みとしての側面のみに基づいて説明する傾向にあったことに起因すると指摘している。このような説明とは対照的に、『741年の年代記』に残されたシリアの記録では、ヤズィードについて、「非常に快活な人物であり、その統治下にあるすべての人々からかなり好意的な目で見られていた。彼は人の常として王侯階級であるが故に自分の栄光を追い求めるようなことは決してなく、一市民としてすべての民衆と共に暮らした。」と説明している。
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