戦いの序章とは? わかりやすく解説

戦いの序章

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 15:08 UTC 版)

甲州征伐」の記事における「戦いの序章」の解説

甲斐武田氏武田信玄後期徳川領の遠江三河への本格的侵攻である西上作戦実行しそれまで同盟関係にあった織田信長徳川氏同盟者であったため武田氏織田氏手切となり、敵対関係入った西上作戦元亀4年1573年)に信玄急死により撤収され、勝頼期に東海方面徳川家康反攻強めた天正3年1575年5月には三河長篠城巡って武田勝頼軍と織田徳川連合軍との間で長篠の戦い発生し武田氏主要家臣多く失う大敗喫し武田家領国動揺した長篠合戦の後、武田氏外戚である木曾義昌武田信玄の娘で勝頼の妹・真理姫の夫)は武田勝頼より秋山虎繁信友)が守る美濃岩村城支援命じられたが、財政的な理由で勝頼に反抗した。虎繁は織田軍に敗れ処刑され美濃方面橋頭堡失い逆に美濃からの織田氏脅威さらされることになる。 長篠合戦後に勝頼は外交関係再構築試み北条氏政とは妹の桂林院殿との婚姻によって甲相同盟固めた。しかし御館の乱契機後北条氏を敵に回してしまう。上杉景勝には妹を娶らせて甲越同盟を結ぶも、上杉家内乱後の深刻な後遺症により上杉領国外への影響力失っていた。対北条には特に上野戦線では有利に進むも、織田徳川北条三方を敵に囲まれた中で過度出兵とそれに伴う支出領国疲弊深めていく。 織田氏畿内北陸における一向宗との戦い石山合戦)や西国毛利氏との戦い忙殺されていたため、しばらく軍を東へ向けることはなかったものの、信長同盟者である三河徳川家康長篠の戦い以降武田氏対し攻勢強め、勝頼はたびたび出兵余儀なくされた。 そうした窮状の中で信長とは人質として武田家寄寓していた織田信房返還し、また常陸国佐竹氏との同盟甲佐同盟)を通じて和睦試みるが(甲江和与)、信長との和睦成立せず、織田徳川連合軍武田領国への本格的侵攻が行われることになる。殊に天正9年高天神城落城際し後詰送れなかった事は、武田氏信望致命的に失墜させた。 織田徳川家などに対す相次ぐ出兵新府城築城かかった費用穴埋めすべく、尋常ならざる割合年貢賦役課しており、人心徐々にではあるが勝頼から離れつつあった。木曾義昌その1人であるが、勝頼の側も秋山支援に動かなかったため木曾不信感抱いており、両者の関係急速に冷却化しつつあった。天正10年1582年2月1日新府城韮崎市築城のため更に賦役増大していたことに不満を募らせ木曾はついに勝頼を裏切り信長嫡男信忠に弟の上義豊を人質として差し出し織田氏寝返った。 勝頼は、真理姫から木曾謀反知らされるとこれに激怒し従弟武田信豊先手とする木曾征伐軍勢5,000余を先発として木曽谷差し向け、さらに木曾義昌生母側室子供を磔にして処刑。そして勝頼自身軍勢1万率いて出陣し諏訪上原城入った信長2月3日武田勝頼による木曾一族の殺害を知ると勝頼討伐決定動員令を発した信長信忠父子伊那から進軍信長の家臣金森長近飛騨方面から、同盟者徳川家康駿河方面から、進軍することに決定した北条氏政へは甲州征伐詳細知らされなかった。情報収集の末、氏政は駿豆方面から侵攻開始した

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戦いの序章

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/20 13:47 UTC 版)

アザーズの戦い (1030年)」の記事における「戦いの序章」の解説

ロマノス3世1030年3月31日アレッポへの軍事行動を自ら率いるためにコンスタンティノープル出発し7月20日アンティオキア到着した。プセルロスによれば自身成功強く確信していたロマノス3世は、来るべき凱旋のために特別な王冠用意し誇大な演出アンティオキア入城したビザンツ軍の接近知ったナスルは、従兄弟のムカッリド・ブン・カーミル(英語版)が率い使節派遣しビザンツ帝国宗主権認め貢納支払い再開する申し出た。プセルロスは、ナスル使節は「戦争が起こる事を望んでいないと宣言しあらゆる戦争口実皇帝に対して与えなかった」が、ロマノス3世が「今や脅しをかける方針臨み、力を誇示することを求めていた」ために、皇帝目標変えない限りビザンツ側は戦争準備するであろう理解した記している。一方でヤフヤー・アル=アンターキーは、使節にはジャッラーフ家(英語版出身タイイ族(英語版)の族長であるハッサーン・ブン・ムファッリジュも加わり、ハッサーンとともに自分たちは皇帝味方であり、皇帝遠征が行われる際には軍事奉仕提供し、必要であれば人質の提供もすると申し出た記録している。 現代の歴史家のハインツ・ハルム(英語版によれば、ハッサーン・ブン・ムファッリジュはロマノス3世に対して進軍続けるように促したタイイ族は前年ファーティマ朝将軍のアヌーシュタキーン・アッ=ディズバリー(英語版)の前にティベリアス湖付近敗北喫して降伏余儀なくされていたが、ジャッラーフ家はパレスチナ牧草地帯を取り戻すためにロマノス3世支援利用したい考えていた。スキュリツェスは、軍隊乾燥した夏のシリア砂漠慣れておらず、兵の重装備負担となっていたために、ビザンツ軍の将軍たちがこのような条件下での軍事行動による危険を避けてナスル申し出受け入れるようにロマノス3世進言したと記録している。この記録は、素早い移動慣れていた遊牧民ベドウィンであるキラーブ族が、より重く動きの遅いビザンツ軍よりも明確な利点持ってたとする現代の学者の見解にも反映されている。 アレッポ対す遠征容易に成功を収めるであろう信じていたロマノス3世将軍たちの忠告拒否した。そしてムカッリドを拘束し7月27日に軍を率いてアザーズ英語版)(ギリシア語ではアザジオン)へ向かった。ハッサーンに対して同時に皇帝権威の印として送り配下の者とともに待機して自分到着を待つように指示した。プセルロスはこの決定について、ロマノス3世は「戦争軍隊の多募によって決する考え皇帝頼りにしていたのは大規模な軍勢にあった」と記している。ビザンツ軍はアザーズに近い不毛な平原野営し野営地周囲防御のための深い塹壕掘った。その一方でナスルとスィマールは戦争への準備進めた両者一族アレッポから避難させ、キラーブ族とその他のベドウィン部族戦士、特にヌマイル族(英語版)の戦士招集しさらにはジハード聖戦)の呼びかけの下でアレッポ周囲農村地帯イスラーム教徒住民動員した動員され部隊大部分アレッポとその城塞守っていたスィマールの指揮下に入った一方でナスル率いた残り部隊全て軽武装のキラーブ族とヌマイル族の騎兵構成されナスル部隊ビザンツ軍と対決するために出発したナスル部隊についてのアラブ側史料説明はさまざまであるアレッポ年代記作者のイブン・アル=アディームとアル=アズィーミー(英語版)(1160年代没)は騎兵の数を923人と記録し、イブン・アビー・アッ=ダム英語版)(1244年没)は700人、エジプトアル=マクリーズィー1442年没)は2,000人と記録しているものの、イブン・アル=ジャウズィー(英語版)(1201年没)は100人の騎兵と1,000人の歩兵記録している。ザッカールの見解では、ナスル部隊全て騎兵構成されていたとほぼすべての史料主張しているため、イブン・アル=ジャウズィーの数字は非常に疑わしいとしている。ビザンツ軍の規模現代学者によっておよそ20,000人と推定されており、軍隊には多く外国人傭兵含まれていた。ナスル部隊比較正確な数とは対照的にアラブ年代記作者ビザンツ軍の規模について300,000人または600,000人という現実的とは言い難い数字記録している。

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