戦いの序章
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甲斐武田氏は武田信玄後期に徳川領の遠江・三河への本格的侵攻である西上作戦を実行し、それまで同盟関係にあった織田信長は徳川氏の同盟者であったため武田氏と織田氏は手切となり、敵対関係に入った。西上作戦は元亀4年(1573年)に信玄の急死により撤収され、勝頼期には東海方面で徳川家康が反攻を強めた。 天正3年(1575年)5月には三河の長篠城を巡って武田勝頼軍と織田・徳川連合軍との間で長篠の戦いが発生し、武田氏は主要家臣を多く失う大敗を喫し、武田家領国は動揺した。 長篠合戦の後、武田氏の外戚である木曾義昌(武田信玄の娘で勝頼の妹・真理姫の夫)は武田勝頼より秋山虎繁(信友)が守る美濃岩村城の支援を命じられたが、財政的な理由で勝頼に反抗した。虎繁は織田軍に敗れ処刑され美濃方面の橋頭堡を失い、逆に美濃からの織田氏の脅威にさらされることになる。 長篠合戦後に勝頼は外交関係の再構築を試み、北条氏政とは妹の桂林院殿との婚姻によって甲相同盟を固めた。しかし御館の乱を契機に後北条氏を敵に回してしまう。上杉景勝には妹を娶らせて甲越同盟を結ぶも、上杉家は内乱後の深刻な後遺症により上杉領国外への影響力を失っていた。対北条には特に上野戦線では有利に進むも、織田・徳川・北条と三方を敵に囲まれた中で過度の出兵とそれに伴う支出で領国は疲弊を深めていく。 織田氏は畿内や北陸における一向宗との戦い(石山合戦)や西国の毛利氏との戦いに忙殺されていたため、しばらく軍を東へ向けることはなかったものの、信長の同盟者である三河の徳川家康は長篠の戦い以降武田氏に対し攻勢を強め、勝頼はたびたび出兵を余儀なくされた。 そうした窮状の中で信長とは人質として武田家に寄寓していた織田信房を返還し、また常陸国佐竹氏との同盟(甲佐同盟)を通じて和睦を試みるが(甲江和与)、信長との和睦は成立せず、織田・徳川連合軍の武田領国への本格的侵攻が行われることになる。殊に天正9年の高天神城の落城に際し後詰を送れなかった事は、武田氏の信望を致命的に失墜させた。 織田・徳川家などに対する相次ぐ出兵や新府城築城にかかった費用を穴埋めすべく、尋常ならざる割合の年貢や賦役を課しており、人心が徐々にではあるが勝頼から離れつつあった。木曾義昌もその1人であるが、勝頼の側も秋山支援に動かなかったため木曾に不信感を抱いており、両者の関係は急速に冷却化しつつあった。天正10年(1582年)2月1日、新府城(韮崎市)築城のため更に賦役が増大していたことに不満を募らせた木曾はついに勝頼を裏切り、信長の嫡男信忠に弟の上松義豊を人質として差し出し、織田氏に寝返った。 勝頼は、真理姫から木曾の謀反を知らされるとこれに激怒し、従弟の武田信豊を先手とする木曾征伐の軍勢5,000余を先発として木曽谷へ差し向け、さらに木曾義昌の生母と側室と子供を磔にして処刑。そして勝頼自身も軍勢1万を率いて出陣し、諏訪上原城に入った。 信長は2月3日に武田勝頼による木曾一族の殺害を知ると勝頼討伐を決定、動員令を発した。信長・信忠父子は伊那から進軍。信長の家臣金森長近が飛騨方面から、同盟者の徳川家康が駿河方面から、進軍することに決定した。北条氏政へは甲州征伐の詳細は知らされなかった。情報収集の末、氏政は駿豆方面から侵攻を開始した。
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戦いの序章
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「アザーズの戦い (1030年)」の記事における「戦いの序章」の解説
ロマノス3世は1030年3月31日にアレッポへの軍事行動を自ら率いるためにコンスタンティノープルを出発し、7月20日にアンティオキアに到着した。プセルロスによれば、自身の成功を強く確信していたロマノス3世は、来るべき凱旋のために特別な王冠を用意し、誇大な演出でアンティオキアへ入城した。ビザンツ軍の接近を知ったナスルは、従兄弟のムカッリド・ブン・カーミル(英語版)が率いる使節を派遣し、ビザンツ帝国の宗主権を認め、貢納の支払いを再開すると申し出た。プセルロスは、ナスルの使節は「戦争が起こる事を望んでいないと宣言し、あらゆる戦争の口実を皇帝に対して与えなかった」が、ロマノス3世が「今や脅しをかける方針で臨み、力を誇示することを求めていた」ために、皇帝が目標を変えない限りビザンツ側は戦争を準備するであろうと理解したと記している。一方でヤフヤー・アル=アンターキーは、使節にはジャッラーフ家(英語版)出身のタイイ族(英語版)の族長であるハッサーン・ブン・ムファッリジュも加わり、ハッサーンとともに自分たちは皇帝の味方であり、皇帝の遠征が行われる際には軍事奉仕を提供し、必要であれば人質の提供もすると申し出たと記録している。 現代の歴史家のハインツ・ハルム(英語版)によれば、ハッサーン・ブン・ムファッリジュはロマノス3世に対して進軍を続けるように促した。タイイ族は前年にファーティマ朝の将軍のアヌーシュタキーン・アッ=ディズバリー(英語版)の前にティベリアス湖付近で敗北を喫して降伏を余儀なくされていたが、ジャッラーフ家はパレスチナの牧草地帯を取り戻すためにロマノス3世の支援を利用したいと考えていた。スキュリツェスは、軍隊が乾燥した夏のシリアの砂漠に慣れておらず、兵の重装備が負担となっていたために、ビザンツ軍の将軍たちがこのような条件下での軍事行動による危険を避けてナスルの申し出を受け入れるようにロマノス3世へ進言したと記録している。この記録は、素早い移動に慣れていた遊牧民のベドウィンであるキラーブ族が、より重く動きの遅いビザンツ軍よりも明確な利点を持っていたとする現代の学者の見解にも反映されている。 アレッポに対する遠征は容易に成功を収めるであろうと信じていたロマノス3世は将軍たちの忠告を拒否した。そしてムカッリドを拘束し、7月27日に軍を率いてアザーズ(英語版)(ギリシア語ではアザジオン)へ向かった。ハッサーンに対しては同時に皇帝の権威の印として槍を送り、配下の者とともに待機して自分の到着を待つように指示した。プセルロスはこの決定について、ロマノス3世は「戦争は軍隊の多募によって決すると考え、皇帝が頼りにしていたのは大規模な軍勢にあった」と記している。ビザンツ軍はアザーズに近い不毛な平原に野営し、野営地の周囲に防御のための深い塹壕を掘った。その一方でナスルとスィマールは戦争への準備を進めた。両者は一族をアレッポから避難させ、キラーブ族とその他のベドウィンの部族の戦士、特にヌマイル族(英語版)の戦士を招集し、さらにはジハード(聖戦)の呼びかけの下でアレッポと周囲の農村地帯のイスラーム教徒の住民を動員した。動員された部隊の大部分はアレッポとその城塞を守っていたスィマールの指揮下に入った。一方でナスルが率いた残りの部隊は全て軽武装のキラーブ族とヌマイル族の騎兵で構成され、ナスルの部隊がビザンツ軍と対決するために出発した。 ナスルの部隊についてのアラブ側の史料の説明はさまざまである。アレッポの年代記作者のイブン・アル=アディームとアル=アズィーミー(英語版)(1160年代没)は騎兵の数を923人と記録し、イブン・アビー・アッ=ダム(英語版)(1244年没)は700人、エジプトのアル=マクリーズィー(1442年没)は2,000人と記録しているものの、イブン・アル=ジャウズィー(英語版)(1201年没)は100人の騎兵と1,000人の歩兵を記録している。ザッカールの見解では、ナスルの部隊は全て騎兵で構成されていたとほぼすべての史料が主張しているため、イブン・アル=ジャウズィーの数字は非常に疑わしいとしている。ビザンツ軍の規模は現代の学者によっておよそ20,000人と推定されており、軍隊には多くの外国人の傭兵が含まれていた。ナスルの部隊の比較的正確な数とは対照的に、アラブの年代記作者はビザンツ軍の規模について300,000人または600,000人という現実的とは言い難い数字を記録している。
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