戦いの帰結
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/15 01:04 UTC 版)
翌日、ダジャン准将は連合軍に降服してミンデンの町を引き渡した。フランス軍はこの戦いで合わせて士官479名と兵7,762名を失った。その内、実に士官127名及び兵4,151名が戦死している。残りの者は負傷し、ほとんどは捕虜になった。その他、大砲22門が鹵獲された。それに対し、連合軍の損害は士官151名と兵2,626名であり、戦死者は士官28名と兵590名であり、残りは負傷者であった。1,411名、すなわち死傷者の過半数はシュペルケン師団に加わって戦場の中心に立ったイギリス軍の6個大隊から出ている。 フランス軍はアインベック、ゲッティンゲンとミュンデン(ドイツ語版)を経由する回り道を通り、8月12日にカッセルに到着した。ここからコンタード元帥は再び軍を増強してから、改めて攻撃に移るつもりだったのである。連合軍は、フランス軍をひとまず追わなかった。8月2日の間ミンデンを包囲し、「テ・デウム」を唱和した後、戦勝の祝砲を撃ったのである。しかし、ブラウンシュヴァイク公フェルディナントは勝利に乗じるべく、撃ち破られた敵軍を追撃することはなかった。勝利から間もなく、彼はフリードリヒ2世から救援要請を受ける。1759年8月12日、クーネルスドルフの戦いに敗れた後、深刻な守勢へと追いやられていたのである。また、翌年にフランス軍がハノーファーに対するさらなる攻勢の拠点して利用できないよう、ミュンスターを奪還する必要もあった。ミュンスター要塞は11月22日に降服する。このように、ブラウンシュヴァイク公にはフランクフルト・アム・マインのフランス側の拠点に対して作戦を遂行する余裕がほぼ無かった。11月、コンタード侯は総司令官を解任され、ブロイ公と交代する。しかし彼も11月30日、フルダの戦いで主導権を奪い返そうと試みて失敗した後、成功を収めることができなかった。こうして1760年1月、双方はフランクフルト・アム・マインとノイヴィートの間で冬営に入った。 この他、1759年にブラウンシュヴァイク公フェルディナントはジョージ2世から一度だけの賞与20,000ポンドを下賜され、ガーター騎士団の一員となった。サックヴィル卿に対し、公は解任を訴える。そしてサックヴィル卿は9月10日、任を解かれた。1760年初頭には軍法会議が開かれ、サックヴィルは軍から罷免される。判決文によれば、彼は「陛下に対し奉り、既存の何らかの軍事的な職務をもって奉仕する能力がない」とされた。 続く3年間も西部の戦線では作戦が実施されたものの、ハノーファー選帝侯領が1759年の夏のような危機を迎えることは二度となかった。これは和平の申し出や、後の1759年11月25日にイギリスとプロイセンからフランスとオーストリアに持ちかけられた和平交渉に影響を与える。フランスは1759年、イギリスに喫した重大な敗北(エイブラハム平原の戦いとキブロン湾の海戦)によって財政的に限界を迎えていたため、この申し出に乗り気であった。イギリスでも国家の負債が、すでに1758年に最初の財政危機を招いていた。しかしオーストリアとロシアは直近の成功(カイの戦いとマクセンの戦い)に基づき、1760年にはプロイセンに対する戦勝を見込んでいたため、講和を拒否した。しかし、後のパリ条約に向けた交渉においても、フランスの立場は不利であった。なぜならハノーファー選帝侯領の継続的な占領に失敗したからである。こうしてフランスの外交官は、インドと北アメリカで失った植民地と引き換えにする「担保」を確保することができなかった。この結果に特に貢献したのは、ブラウンシュヴァイク公がミンデンで収めた勝利であった。
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