戦いの帰結と意義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/17 14:41 UTC 版)
「クレーフェルトの戦い」の記事における「戦いの帰結と意義」の解説
この一事は「クレーフェルトの戦い」として歴史に名を留めることになる。大いに優勢であったにも拘らず、フランス軍は敗れた。1か月後、フェルディナント公は軍の一部をルールモントに移す。すでに6月の末、彼は別の一軍をデュッセルドルフ要塞の攻囲に回していた。同地のフランス軍守備隊は1758年7月6日に降伏し、フェルディナント公は町を占領することができた。それから彼はユーヒェン(ドイツ語版)近郊のディーク城(ドイツ語版)に本営を移す。その軍はグレーヴェンブローホへ向かい、そこからさらに進んだ。そしてフランス軍が新しい司令官、コンタード侯ルイ・ジョルジュ・エラスム(英語版)元帥とともにケルンから再び進撃して来るまで後退しなかった。 フェルディナント公は、もはや12名のハノーファー兵が守るのみであったクレーフェルトの町をフランス軍に明け渡す。ヒュッケルスマイの記念碑は、今日なお同地に埋葬された双方の死傷者、2,867名と負傷者および捕虜2,719名を記念している。 ヒュッケルスマイの戦勝を記念するため、クレーフェルトの市民はフェルディナント公の名を冠した通り、「プリンツ=フェルディナント通り」を捧げた。 かつての戦場のすぐ傍にある、クレーフェルト市のホテル、「ヒュッケルス・マイ」の一室ではフォルストヴァルト市民協会が小さな博物館を運営しており、そこでおよそ10平方メートルのジオラマがヒュッケルスマイの戦いの一部を展示している。 1758年にはネーデルラントの地図製作者、イサーク・ティリオン(英語版)がフリードリヒ・フォン・デア・ライエン(ドイツ語版)の依頼で戦況図を製作した。 「1758年6月28日のデュッセルドルフ砲撃の地図」、1766年の銅版画。
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