ブリュッヒャー大将の攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 21:04 UTC 版)
「グロースゲルシェンの戦い」の記事における「ブリュッヒャー大将の攻撃」の解説
スアム師団将軍は、ネイ元帥に代わってその部隊(ブレニエ(英語版)師団、ジラール(英語版)師団とリカール(英語版)師団)を指揮していた。これらは正午の頃、その右翼を南方からブリュッヒャー軍団(18,500名と騎兵5,500名)に襲撃された。プロイセン軍は当初、四つの村を全て奪うことができたが、午後に入って一進一退の戦いの後、撤退を強いられた。クリュックス(ドイツ語版)大佐の旅団は右翼から介入するツィーテン旅団が来援するまで、じりじりと後退して耐え抜く。スアム師団将軍はブレニエ並びにリカール両師団将軍の、士気旺盛な部隊をもって指揮下の師団を増強すると、激しい反攻を開始した。ブリュッヒャー大将はツィーテン中将指揮下の上シュレーズィエン旅団を増援に送るよう強いられた。シャルンホルスト少将その他のプロイセン軍の諸将は、クラインゲルシェンやラーナの激しい戦いに自ら加わっている。ドルフス大佐率いる予備旅団はその間に、フランス軍のジラール師団に占領されていたシュターズィーデル(英語版)村への攻撃を試みた。この攻撃ではプロイセン公子ヴィルヘルムも指揮下のブランデンブルク胸甲騎兵連隊とともに戦いに身を投じ、シュターズィーデルである大隊を後退させている。しかしフランス軍の主力から来援する部隊は増え続け、戦力比はナポレオンに有利となり、連合軍の総司令官ヴィトゲンシュテイン大将は状況の主導権を失う。疲弊した敵部隊はクラインゲルシェンとケッツェンの間で、カーヤの戦いの帰結を待った。
※この「ブリュッヒャー大将の攻撃」の解説は、「グロースゲルシェンの戦い」の解説の一部です。
「ブリュッヒャー大将の攻撃」を含む「グロースゲルシェンの戦い」の記事については、「グロースゲルシェンの戦い」の概要を参照ください。
- ブリュッヒャー大将の攻撃のページへのリンク