オーストリアおよびハンガリー統治下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/30 02:53 UTC 版)
「バナト・ブルガリア人」の記事における「オーストリアおよびハンガリー統治下」の解説
1753年から1777年の間に、スヴィシュトフやニコポル周辺のパウロ派の信徒がバナトに移住した。18世紀後半から19世紀中頃にかけて、この地域におけるブルガリア人の人口は急速に拡大した。彼らはよりよい経済条件、特に耕作地を探し求め、およそ20の町や村に住み着いていた。この時代にブルガリア人が住み着いた村には、モドシュ(Modoš、1779年)、カナク(Kanak)、スタリ・レツ(Stari Lec、1820年)、ベロ・ブラト(Belo Blato、1885年)、ブレシュチャ(Bréšća)、デンタ(Dénta)、バナツキ・ドヴォル(Banatski Dvor、1842年)、テレパ(Telepa、1846年)、ジュルゲヴォ(Gjurgevo、1866年)、イヴァノヴォ(Ivanovo、1867年)などがある。 彼らは住む場所を定めると、次に教育や宗教に関心を払うようになった。スタル・ビシュノフのネオ・バロック様式の聖堂は1804年に建造され、ヴィンガのネオ・ゴシック様式の聖堂は1892年に建造された。1863年までに、バナト・ブルガリア人はラテン語および「イリュリア語」で典礼を行っていた。この「イリュリア語」とはクロアチア語の一派であり、これらのブルガリア人がバナト地方に移住する前から彼らの間に広がっていた。しかし、19世紀半ばの民族復興時代になると、彼らが日常的に用いるブルガリア語の方言が教会でも使用されるようになった。民族復興運動はまた、バナト・ブルガリア語による初の印刷物「Manachija kathehismus za katolicsanske Paulichiane」(1851年)の発行にもつながっていった。1860年(公的には1864年)には、教育においても「イリュリア語」に代わってバナト・ブルガリア語が用いられるようになった。1866年、ヨズ・リル(Jozu Rill)は自著「Bálgarskotu pravopisanj」の中でこの方言をまとめて体系化した。 1867年のアウスグライヒの後、バナトはハンガリー王国の統治下となった。ハンガリー政府はバナトのマジャル化(Magyarization)を大幅に強化した。これ以降第一次世界大戦までの間、教育におけるハンガリー語の使用が強制された。
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