呼称の変遷
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ベオグラードは歴史上、様々に異なる名前で呼ばれてきた。そして、その多くは「白い街」を意味している(ロシアのベルゴロドも白い街を意味している)。 名前注記Singidūn(o)- ケルト人の部族スコルデスキ(Scordisci)による呼称。dūn(o)-は駐屯地や要塞を意味する。singiには諸説あり、一説ではケルト語の「円」を意味するとされ、全体で「円形の要塞」の意味になる。別の節では、スコルデスキ以前にこの地を支配した、トラキア人の氏族と思われるシング(Sing)に由来すると考えられている。 Singidūnum ローマ帝国による征服で、ケルト語名をローマ化した呼称 Београд / Beograd 初めてのスラヴ語による記録は878年で、ブルガリア帝国のボリス1世からローマ教皇ヨハネ3世への手紙の中で白い街、あるいは白い要塞を意味する「Beligrad」として言及されている。 Alba Graeca Albaはラテン語の「白」に由来すると考えられる。 Alba Bulgarica ブルガリア帝国統治時代におけるラテン語呼称 Weißenburg / Griechisch-Weißenburg ドイツ語化した呼称。現代のドイツ語ではBelgradである。 Castelbianco イタリア語化した呼称。 Nandoralba 14世紀以前の中世ハンガリー王国での呼称 Nándorfehérvár, Landorfehérvár 中世ハンガリーによる呼称で、「白い騎士の街」を意味する。現代のハンガリー語ではBelgrádである。 Veligrad(i)on or Velegrada/Βελέγραδα 東ローマ帝国による呼称。現代ギリシア語での呼称はΒελιγράδι / Veligradi Dar Al Jihad オスマン帝国統治時代のアラビア語呼称。 Prinz-Eugenstadt 第二次世界大戦時、ナチス・ドイツの占領下となったベオグラードでナチスにより計画された呼称。この呼称は1717年にこの街を征服したオーストリアのプリンツ・オイゲンに因む。
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呼称の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 14:16 UTC 版)
大日本帝国陸軍(以下、陸軍)では元々、「特務機関」とは上述のような特殊任務を遂行する組織を称したものとは異なり、軍隊(軍、師団、連隊など)、官衙(陸軍省、参謀本部、教育総監部など)、学校(陸軍士官学校など)という3つの区分に属さない組織、つまり元帥府・軍事参議院・侍従武官府・皇族附武官・外国駐在武官・将校生徒試験委員等に与えられた呼称であった。しかし日露戦争中の明石元二郎大佐による「明石機関」の活動を契機として、シベリア出兵以降、陸軍では特殊任務にあたる実働グループを「特務機関」と呼ぶようになった。本項では上記の意味における特務機関を中心に述べる。 しかしながら、同時期の日本海軍(以下、海軍)や外務省などにも「〜機関」と称される特殊組織は存在した。やはりそのいずれもが特殊任務を遂行したことから陸軍での呼称を準用したものと思われる。さらに、第二次世界大戦期やそれ以前の時期に限らずに、また場合によっては日本以外の国や団体が設置した組織についても「特務機関」の語が用いられる例がある。
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呼称の変遷
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EC-135の後継機として発注された当初の呼称は発展型空中国家指揮所 (AANCP・AABNCP Advanced Airborne National Command Post) 。 その後、国家緊急空中指揮所 (NEACP National Emergency Airborne Command Post) と呼称が変更される。 1994年以降、冷戦構造の崩壊によって核戦争の差し迫った危機もなくなり、大規模災害への対応のためにFEMA長官の要請で被災地域支援をするようにもなった。そのため、前述した現在の呼称に変更された。 E-4は全面核戦争の指揮を目的とした機体であったことから「世界の終わりの日のための飛行機」(ドゥームズデイ・プレーン(英語版) Doomsday Planes) とも呼ばれている。
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呼称の変遷
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この機構を発見し論文として発表したのはリドフの方が先であることから、現在では多くの著者が Lidov–Kozai (mechanism / oscillation / など) という表記を用いるが、Kozai–Lidov との表記を用いる者、あるいは単に Kozai とだけ表記する者も多く見られる。リドフの1961年のロシア語の論文およびその英訳である1962年の論文と古在の1962年の論文で述べられている内容は、実質的には等価なものである。それにもかかわらず、当初リドフの論文が古在の論文ほど引用されなかったのは、論文が発表された学術雑誌の知名度に差があったことが原因だと考えられる。天体物理データシステムに登録されている論文の中では、リドフと古在の論文を同時に引用したのは Lowrey による1971年の論文が初めてであるが、その後30年近くにわたってリドフの論文はほとんど引用されていなかった。ただしこれはあくまで天体物理データシステムなど主要な論文データベースに登録されている論文での統計であり、年代が古い論文や、ソ連の科学コミュニティのロシア語論文に関する統計は完全ではない可能性があることには注意が必要である。 21世紀に入り、リドフによる業績が再び注目を浴びるようになった。同じく天体物理データシステム上のデータでは、21世紀になってリドフと古在の1962年の論文を同時に引用した初めての論文は、Matija Ćuk と Joseph A. Burns による巨大惑星の不規則衛星の軌道の長時間進化に関する研究である。当初は単に Kozai (mechanism) と古在の名前のみを冠して呼ばれていたが、リドフによる研究が知られるにつれリドフの名前も冠する呼称を使う研究者が増えていった。"Lidov–Kozai" は2006年の論文で Lidov–Kozai resonance として初めて用いられた。また "Kozai–Lidov" は2005年の論文で Kozai–Lidov resonance として初めて用いられた。
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呼称の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 09:24 UTC 版)
近現代に「部落」の語が用いられるに伴い、「地区」の意味での「部落」と混同されないよう部落民自らが「特殊部落民」と称するようになった。なお、「特殊部落」の語の初出は小島達雄の研究によれば1902年「明治三四年度奈良県学事年報」である。しかし「特殊部落民」との呼称も蔑称として使われたことから、「細民部落」「被圧迫部落」「未解放部落」「被差別部落民」などの呼び方に換えられた。 歴史学者井上清が1954年の論文で、従来使われていた「特殊部落」「未解放部落」の語に代わって「被差別部落」の語を考案した。 なお、井上は、部落問題研究所理事として運営にも関わるなど、部落解放運動に積極的に関わっていた。ただし1966年11月発刊の『世界大百科事典』(平凡社)には「特殊部落」の項目名で記事が立項されており、筆者は井上清その人であった。 灘本昌久は「「特殊部落」の使用が自動的に差別発言であるかのごとくにねじ曲げて解釈されるようになるのは、1970年代に入ってからである」 と述べている。 蔑称として「部落民」「特殊部落民」ほか、「同和行政」という語に由来して「同和」が使われることもある。 灘本昌久は、1968年頃以降、共産党系は「未解放部落」、部落解放同盟系は「被差別部落」、行政関係者は「同和地区」、2002年(平成14年)の地対財特法失効後は「旧同和地区」を用いる傾向があるが、近年は共産党系も「同和地区」(「旧同和地区」)で統一している、と指摘している。 ただし「被差別部落」と「同和地区」は同義語ではなく、封建時代の被差別民の集住地でありながら「同和地区」指定を自ら拒否し、同和事業の実施を拒絶した地区(未指定地区)は日本全国で約1000箇所にのぼる。 この未指定地区は、同和地区に比べて経済的に恵まれている地域が多い。 なお、「部落差別」という呼び方から「集住している人々」に対する差別であるという受け止め方が多いが、これは必ずしも正しくなく、地域的に差が見られる。都市部や農山漁村部を問わず集住している場合が少なくないものの、被差別でない集落の近隣に単独もしくは少数で暮らしている場合もある。 たとえば、九州の一部地域のように下級刑吏として被差別民に該当する身分、あるいは社会集団に属する人が隠れ切支丹監視のために一家族ずつ分散して派遣された場合などである。 被差別部落の中では、被差別部落の外(いわゆる「一般地区」)の出身者を指して「ハク」という名称が使われることがある。また「部落外」(ムラの外)の意味で「むらそと」という語が使われることもある。高知県宿毛市の部落では、部落外の者を「ネス」「スネグロ」、部落の者を「テコ」と呼ぶ(カラゴ=唐語と呼ばれる地元の部落内隠語)。 現在では同和行政特別施行地区という呼び方をする自治体もある。 なお、年配者や東日本などでは現在でも日常的に差別などの意味を持たない「集落」「地区」などの用法で「部落」という言葉を用いている。一例として、成田空港問題で反対運動を行っている成田市東峰地区の住民らは、広報紙で、特殊部落ではない同地区を東峰部落と称している。
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呼称の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 10:04 UTC 版)
日本では明治から昭和初期までは、「南京そば」「支那そば」と一般に呼称されていた。この場合の「南京」は南京町(中華街)や南京豆同様に、都市としての南京市というより、「中国の」あるいは「外来の・舶来の」という意味合いである。「支那」は、当時の中国の意味である。 第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)に、中華民国(当時の中国の国名)の名称として、支那という単語の使用自粛が外務省事務次官通達により要請されたことから、『中華そば』という名称が生まれ、支那そばに代わって中華そばと一般的に呼称されるようになった。 当初は多数派だった「中華そば」に代わって、「ラーメン」という呼称が多数派となったのは、1958年 (昭和33年) に発売された初のインスタントラーメン「チキンラーメン」(日清食品)が普及したためといわれている。以降はラーメンと呼称されることが一般的になったが、「中華そば」も引き続き使われている。なお、おやつカンパニー(当時は松田産業)の「味付中華麺」など、チキンラーメン以前から即席麺は存在していた。 また、「拉麺」も京都拉麺小路や東京拉麺など、使われている。 近年ではラーメンの多様化を受けて、懐古的な意味合いから昔風のラーメンを支那そば、中華そばと呼ぶ店もある。中華そばはインスタントラーメンの名称にも使われている。
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呼称の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 22:04 UTC 版)
日本ではタイプライターの打鍵法教育用に「触鍵法」という漢字熟語が使われていた[要出典]。見ながら打つ方法は「視鍵法」と呼ばれ、触覚と視覚の対比となっていた[要出典]。 1913年(大正2年)発行の秋元正四著『タイプライタ教科書 : タツチメソード』(模範タイピスト養成所)は、タイプライティングの理想的練習法としてキーボードを見ずに謄写する「タッチ、メソード」(Touch method)の教科書となっている。 1923年(大正12年)発行の加茂正一著『タイプライターの知識と練習』ではTouch System、Sight Systemという用語が使われ、Touch Systemは「タッチ運指法」と訳されている。1940年(昭和15年)発行の『英文タイピスト要論. 第1巻』(大阪タイピスト女学校)でも同様にTouch Systemに「タッチ運指法」の訳語が使われている。 1927年(昭和2年)発行の『欧文タイプライチング : 附・欧文クラインシユミツト鍵盤鑽孔術』(逓信省電務局)では「タッチシステム」「サイトシステム」という用語が使われている。 冨樫雅文は1989年の論文で「触指打鍵」(しょくしだけん)という訳語を用いている。対義語には「目視打鍵」がある。 1990年代半ばまでは和製英語のブラインドタッチ (blind touch) という表記がよく使われていたが、以降は「タッチタイピング」が主流となった。 「ブラインドタッチ」という言葉に関しては、一部でブラインド(=盲目)という表現が差別的ではないかとの指摘がされている。
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以前は、6-プレニルナリンゲニンのことをソホラフラバノンBと呼称していた。
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幼名はラジニーシ・チャンドラ・モハンというが、これは「闇を照らす満月の王者」を意味する。 1971年、アチャリア(教師)と呼ばれていた時代が終わり、彼はバグワン(祝福されし者)と呼ばれ始める。 1989年、彼は「私を指すには〝シュリ・ラジニーシ〟で充分だ」と語る。 同年2月29日、サニヤシンたちはシュリ・ラジニーシを呼ぶ新しい尊称として〝Osho〟という言葉を選ぶ。Oshoはこれを受け容れ、以後しばらくのあいだ、〝Oshoラジニーシ〟として知られる。 同年9月12日、「新しい人間がみんなの前に姿を現す。彼はもはやラジニーシとして知られることはない。彼はただOshoと呼ばれることになる」という本人の声明が発表され、世界中のコミューンや瞑想センターからラジニーシという名前が落とされる。 加えてその名前は19世紀のアメリカ詩人ウィリアム・ジェームズの言葉「オーシャニック」に由来し、大海に溶け込むことを意味するとも説明した。 1989年末、商標名は”Rajneesh”から”OSHO”に変更され、現在では日本を含め50カ国近い国で商標登録されている。日本では邦訳書や公式サイトなどが、2001年末半ばから”OSHO”、本人を示す場合は、”Osho”と英字表記されている。
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呼称の変遷
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同性愛は時代によって様々な呼ばれ方をされてきた。男性同性愛は、江戸期などは衆道(しゅどう)、男色(だんしょく)のほか、菊契(きくちぎり)、菊華(きくか)、断袖などといった。近代以降はソドミア、クラフト・エビングの「性の精神病理」で知られるようになったウールニング(en:ウラニアン)、ウラニズム、女性同性愛はレスボスなどとも呼ばれた。因みに、ウールニング(Urning)はドイツ語で男性同性愛を意味するが、この言葉はドイツの弁護士で同性愛者の活動家、カール・ハインリッヒ・ユルリクス(de)が名付けたもの。同性愛を連想する逸話のあるギリシャ神話の天空神、ウーラノスが語源。 太平洋戦争後は、女装する同性愛者は、ブルーボーイ、シスターボーイ、ゲイボーイなどと呼ばれてきた。ブルーボーイは1963年にパリのショークラブ「カルーゼル」の性転換・女装ダンサーたちが来日公演し、彼女たちを「ブルーボーイ」と呼んだのが広まったきっかけだった。ゲイは今の日本や世界では同性愛者のマジョリティの女装しない同性愛男性を指すが、1980年代頃までの日本ではゲイにボーイをつけ「ゲイボーイ」で、女装者(ニューハーフ)を意味した。比留間久夫の「YES YES YES」(1989年)でもニューハーフのルルとフランソワを「ゲイボーイ」と呼んでいる。その頃、非女装の同性愛男性はホモ、ホモセクシュアルと呼ばれることが多かったが、同時に現在の意味においての「ゲイ」も使われ始めていた。芸術的感性が優れている、独特の感性を持っているホモセクシュアル男性もゲイと呼ぶことがあった。
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呼称の変遷
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国際法上で必要な国家の交戦開始の意思表示がなされなかったため、戦争と呼ばれなかった。日本政府は当初は北支事変(ほくしじへん)と呼称し、その後、支那事変となった。陸軍省軍事課長田中新一大佐は、8月14日の閣議で「北支事変は日華事変と改称すべきだ。相手が拡大主義だから我が不拡大は成立たない」と言った意見が出ていたと回想している。 1945年12月8日から17日にわたって連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)に指示されて新聞各紙に掲載された「太平洋戦争史」では、「支那事変」が使用されたが、連載をまとめ1946年4月に刊行された連合軍総司令部民間情報教育局提供・中屋健弌訳『太平洋戦争史-奉天事件より無条件降伏まで』(高山書院、昭和21年4月)では「日支事変」とされた。なお、GHQ/SCAPは、『文藝春秋』1946年11月号に掲載された青野季吉の「中堅作家論ノート」における「支那事変」と表記について、「支那事変は日華事変と書かれるべきである」と命令した。 1946年6月、中華民国の抗議を受けて「支那」の文字の使用を避けるべきとする「中華民国の呼称に関する件」が外務省総務局長名で出され、次官通達「支那の呼称を避けることに関する件」が各省次官などに伝達された。同文書では、「支那」に代わる用例として「中華民国」、「中国」、「日華」などが挙げられたが、歴史的地理的または学術的の叙述の場合は「東支那海」や「日支事変」などの使用はやむを得ないとされた。同通達を受け、7月3日に文部大臣官房文書課長名の「『支那』の呼称を避けることについて」と題する「通知」が各大学・高等専門学校長宛に出されて以降、「支那」の語句が避けられ、「支那事変」の使用は減少し、「日華事変」が使用され始めた。 高等学校学習指導要領は昭和26年度改訂から、中学校学習指導要領社会科編は昭和30年度改訂から「日華事変」が使用され、昭和32年度から全社の中学校歴史教科書で「日華事変」となった。昭和50年度から教科書に「日中戦争」が登場したが、学習指導要領は「日華事変」のままであった。「日中戦争」の呼称の使用に比例して、日本の中国に対する「侵略」を強調する傾向が強まったように、呼称には歴史認識も大きな影響を及ぼしていた。日中国交正常化を受け1970年代に「日中戦争」が普及し、「日華事変」は使用されなくなっていった。
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