明石元二郎とは? わかりやすく解説

明石元二郎 あかし もとじろう

明石元二郎の肖像 その1
明石元二郎の肖像 その2

(注:この情報は、国立国会図書館ホームページ内の近代日本人の肖像」の内容を転載しております掲載内容の複製については、国立国会図書館の許諾を得る必要があります。)

明石元二郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/17 12:51 UTC 版)

明石 あかし 元二郎 もとじろう
明石元二郎
生誕 1864年9月1日
元治元年8月1日
江戸幕府筑前国福岡
死没 (1919-10-26) 1919年10月26日(55歳没)
日本福岡県
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1889年 - 1919年[1]
最終階級 陸軍大将
テンプレートを表示

明石 元二郎(あかし もとじろう、1864年9月1日元治元年8月1日〉- 1919年大正8年〉10月26日[1])は、明治・大正期の日本陸軍軍人陸軍大将正三位勲一等功三級男爵。第7代台湾総督(1918年[2]-1919年[1])。福岡藩出身。

経歴

生い立ち

福岡藩士・明石助九郎貞儀[3]の二男として元治元年(1864年)に福岡藩福岡城下の大名町に生まれる[4]。明石家の家格は「大組」[注 1]であり、1300石の大身であった[6][7]

1877年(明治10年)6月に陸軍士官学校幼年生徒となった[3]。1883年(明治16年)12月25日、陸軍士官学校を卒業し(旧陸士6期)、同日、歩兵少尉に任じられた[8]。更に1889年(明治22年)に陸軍大学校(5期)を卒業すると参謀本部に奉職、海軍大学校教官を兼務する[9]

ドイツ留学、仏印出張、米西戦争(1898年4月21日–8月13日)のマニラ観戦武官を経て、1901年(明治34年)[10]フランス公使館付陸軍武官となる[11]1902年(明治35年)にロシア帝国公使館付陸軍武官に転任[12]、のちに首相となる田中義一陸軍武官から業務を引き継ぐ。当時からロシア国内の情報を収集し、ロシアの反政府分子との接触を試みる工作活動が行われていた[13]

首都ペテルブルクのロシア公使館に着任後、日英同盟に基づいた情報協力により、イギリス秘密情報部のスパイであるシドニー・ライリーと知り合い、友人となった[14]。明石の依頼により、ライリーは1903年(明治36年)から建築用木材の取引業者に偽装すると、戦略的要衝である旅順に移住し材木貿易会社を開業、ロシア軍司令部の信頼を得て、ロシア軍の動向に関する情報や、旅順要塞の図面などをイギリスおよび日本にもたらしている。

日露戦争での諜報活動

明治37年(1904年)、日露戦争が開戦すると駐ロシア公使館は中立国スウェーデンストックホルムに移り、明石(当時の階級は大佐)は以後この地を本拠として活動する。

K・コンニ・シリヤクス著『Japanesiska studier och skizzer』(1896年 『日本の研究とスケッチ』[15]

開戦直前の1月、参謀本部次長児玉源太郎は開戦後もロシア国内の情況を把握するため、明石に対し「ペテルブルク、モスクワオデッサに非ロシア人の外国人を情報提供者として2名ずつ配置」するよう指令電報を発した。さらに明石は日露開戦と同時に参謀本部直属のヨーロッパ駐在参謀という臨時職に就き、ストックホルムに移った[16]際にも児玉から「お前を信じているぞ」という趣旨の激励の電報が届いた[17]

エヴノ・アゼフ

明石はロシア支配下にある国や地域の反ロシア運動を支援し、またロシア国内の反政府勢力と連絡を取ってロシアを内側から揺さぶるため、様々な人物と接触した。例を挙げると、フィンランドの反ロシア抵抗運動指導者カストレーン[18]、シリヤクス[19]、スウェーデン陸軍将校アミノフ、ポーランド国民同盟ドモフスキ、バリツキ、社会革命党チャイコフスキー、グルジア党デカノージ、ポーランド社会党左右両派など、ロシア国内の社会主義政党指導者、民族独立運動指導者などである。特に、当時、革命運動の主導権を握っていたコンニ・シリヤクスフィンランド語版率いるフィンランド革命党[20]などを通じ、様々な抵抗運動組織と連絡を取っては資金や銃火器を渡すと、デモやストライキ、鉄道破壊工作などのサボタージュが展開されていった。その内の鉄道破壊工作などは失敗するものの、デモ・ストライキは先鋭化し、ロシア軍はその鎮圧のために一定の兵力を割かねばならず、極東へ派遣しにくい状況が作られた[21]

明石の工作の目的は、ロシア国内の反乱分子の糾合や、革命政党エスエル(社会革命党)を率いるエヴノ・アゼフなどへの資金援助を通じ、ロシア国内の反戦、反政府運動の火に油を注ぎ、ロシアの対日戦争継続の意図を挫折させようとしたものであり、満州軍においては、欧州の明石工作をロシア将兵に檄文等で知らせて戦意を喪失させようと計ったり、また欧州情勢を受けてロシア軍の後方攪乱活動を盛んに行ったりした(満州義軍)。

また明治37年(1904年)5月、ポーランドの反ロシア民族主義者ロマン・ドモフスキ英語版が児玉源太郎と会談した。満洲軍設置の激務の折に児玉がわざわざ時間を割いたのは、明石から情報を得て連携が取れていたためである[22]

日露戦争全般にわたり、ロシア国内の政情不安を画策してロシアの継戦を困難にし、日本の勝利に貢献しようと意図した明石の活動は、後に、明石自身が著した『#落花流水』などを通じて巷にも日本陸軍最大の謀略戦と称えられるようになった。参謀次長長岡外史は、「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と評し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世も、「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」と言って称えたと紹介する文献もある[23]。成果の度合いや後述する#レーニンとの会談の有無については別にしても、これら明石の謀略活動の意図に関しては研究者の間でもほぼ見解は一致する。

なお、前述した自著『#落花流水』や司馬遼太郎の筆による小説『坂の上の雲[24]は、以下のような粗筋をベースに描いている。

明治37年(1904年)、明石はジュネーヴにあったレーニン宅で会談し、レーニンが率いる社会主義運動に日本政府が資金援助することを申し出た。レーニンは、当初これは祖国を裏切る行為であると言って拒否したが、明石は「タタール人の君がタタールを支配しているロシア人の大首長であるロマノフを倒すのに日本の力を借りたからといって何が裏切りなのだ」といって説き伏せ、レーニンをロシアに送り込むことに成功した。その他にも内務大臣プレーヴェの暗殺、血の日曜日事件、戦艦ポチョムキンの叛乱等に関与した。これらの明石の工作が、後のロシア革命の成功へと繋がっていく。後にレーニンは次のように語っている。「日本の明石大佐には本当に感謝している。感謝状を出したいほどである。」と。

この件は歴史家から疑念を示されている。例えば稲葉千晴は、明石が拠点とした北欧の研究者と共同して工作したかどうか検証作業を進め、一方でレーニンと会談した事実も、レーニンが上記のような発言を行った事実も確認されず、現地でもそのような説は流布していないと示された上、他方、ロシア帝国の公安警察であるオフラナが明石の行動をチェックしており、明石が「血の日曜日事件」や「ポチョムキンの反乱」に直接、関与していた根拠は薄いとしている[25][26][27]。ただし稲葉は他方、日露戦争において欧州での日本の情報活動が組織的になされていたこと、その中で明石の収集した情報が量と質で優れていたことは評価している[28]。今井はレーニンと会談したという話を、日露戦争後に陸軍で傍流扱いされた明石の屈折した感情から出た言葉ではないかと推定している。また西原も、著書において「レーニンは明石の申し出を断った」と記している[29]

日本国内においては、日露戦争について明石の活動が評価されているが、対戦国であったロシア側は、明石の活動がロシアの対日警戒、対日諜報活動を促したとしている。ロシアの月刊誌『ロージナロシア語版』(Родина、『祖国』の意)は2004年の日露戦争特集号で、日本の参謀本部や外務省は満州において中国人やモンゴル人を使って強力な情報網を構築したが、このことがロシア(ソビエト連邦時代)の対日情報工作の強化[注 2]に繋がったこと、また日本が備えた防諜体制の甘さをもあわせて指摘している[30]。日本側もフランス人記者を使ったロシアの諜報工作に晒されていたのである[30][注 3]

日露戦争中、明石は一人で巨額の工作資金を消費した。それは当時の国家予算約2億3000万円の内、100万円程[注 4]であったが、参謀総長山縣有朋、同・最終階級長岡外史次長らの決断により参謀本部から支給され、ロシア革命支援工作などにも利用された。この点について評論家西部邁は以下のように述べている。
「日露戦争のときには、日本にも明石元二郎という立派なスパイがいました。彼が使った工作資金はいまの標準でいうと数百億円ですってね。1兆円という話も聞いたことがある。それで第一次ロシア革命を煽り立てるわけです。これにはさすがのツアーも参ってしまった。」[32]

日本の日露戦勝(1905年(明治38年)9月)の後においてドイツの皇帝ヴィルヘルム2世は「明石一人で日本軍20万人に匹敵する成果を挙げた」と語っていたと伝わる[23]

日露戦争後

明治43年(1910年)7月、寺内正毅朝鮮統監の下で憲兵司令官と警務総長を兼務し朝鮮併合の過程で武断政治を推し進めた[33]。1911年、下関市ヘ旅行[34]、翌年8月8日付の指令で東京に出張する[35]。ソウルに多くの報道関係者が詰めかけると[36]、明石警務総長が強化した検閲を「恐ろしい体制(Schreckensregimentシュレッケンスレジメント)」であるとドイツ新聞アルゲマイネ・ツァイトゥングドイツ語版英語版は1910年、「わずかな違反行為でさえ、国内の新聞の弾圧、外国の新聞の報道記事の押収」に至ると報じられた[37]報じた。フランクフルター・ツァイトゥングはそれに対する意見をエルヴィン・フォン・ベルツ医師に求めた。ベルツは明治天皇の侍医(1902年-1905年)を務め伊藤博文の主治医であり、ドイツは軍事上、朝鮮と無関係の位置にあるからと前述の論評をいさめた[38]

大正3年(1914年)4月、参謀次長に着任するが、翌10月、熊本の第6師団長に転じる。問題なく職責を全うしていたにもかかわらず、わずか1年で師団長に転補させられた背景には、陸軍内における「スパイ蔑視」の風潮がある。児玉源太郎や山縣有朋はそのような風潮を深く認識していたが、同時に情報の重要性も理解していたため、明石や福島安正などの情報畑の人材を積極的に引き立てていた。だが依然、明石を警戒する空気は根強く、結果的に更迭された。明石自身、単独行動が多く、派閥行動や組織内遊泳に長ける環境になかったことから、情報将校が出世し辛い、ひいては情報を軽視する風潮につながった可能性が指摘されている[39]

同7年(1918年)7月に第7代台湾総督に就任、陸軍大将に進級する。総督在任中は社会基盤の整備に腐心した。台湾電力を設立し日月潭水力発電所を含む水力発電事業を推進したほか、高雄港の拡充、鉄道貨物輸送の停滞を消解するため新たに海岸線を敷設した。司法制度の改革にのぞみ、森林令による木材資源の涵養、台湾教育令を改正して日本人と台湾人が均等に教育を受けられるように図り[42]、台湾人にも帝国大学進学への道を開いた[注 5]。設立した華南銀行は、今日でも台湾最大級の金融機関である。

八田與一嘉南平原旱魃洪水対策のために計画した嘉南大圳の建設を承認し、その建設予算を獲得することに尽力して台湾総督府の年間予算の3分の1以上に達する金額を工面した。大正8年(1919年)8月、台湾総督府から分離して独立の軍となった台湾軍の初代司令官を兼務する。 台湾総督の次は総理大臣にと周囲からは期待されていたようだが、現地の事情をつかもうと台湾全土を総督在任1年4か月で視察し終えて、大正8年(1919年)10月、公務のため日本へ一時帰国する洋上で病を得て、郷里の福岡に帰り着いた。石井光次郎は、台湾総督であった明石の秘書官を務めた人物である。亡くなる[1]直前の明石元二郎を見舞った時の様子を次のように記憶していた。

(原文ママ)レーニン、トロッキーを使つたその時分の丁度ロシヤの革命の時だつたものだから、僕はあの時行つたら頻りに机の抽出しを引出しながら書類を散らかしてござる。「何ですか」と聞くと「レーニンとかトロッキーとかというのは、あいつ等は皆、俺が使つてやつたんだが妙なことになつたものだと思う。そいつ等が何か書いたものがいろいろあつたと思つて今、暇だから探していたんだ」といわれた。その時「どうですか、この革命は続きますか」ときいたら「やあ、暫くはいいだろうが続かん」というてござつたが、こいつあ見当違いだつた。 — [注 6]

満55歳だった。死因は脳溢血説、肝硬変説などがある。生前、大酒飲みだったので肝硬変説は特に有力視されているが、最近では当時、世界的に流行していたインフルエンザの1種スペイン風邪に罹患したのではなかったかと言われている。

画像1 明石元二郎鳥居
余の死体はこのまま台湾に埋葬せよ。いまだ実行の方針を確立せずして、中途に斃れるは千載の恨事なり。余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるべからず」
画像2 林森公園にある碑石(北緯25度03分12秒 東経121度31分33秒 / 北緯25.053452度 東経121.525822度 / 25.053452; 121.525822
地図
画像3 鳥居2基。向かって左は明石元二郎、左は鎌田正威に捧げられた。

遺言によって、遺骸は福岡から台湾に移され、台北市の三板橋墓地(現・林森公園)に葬むられた。歴代19人の総督のうち台湾を永遠の地に選んだ唯一の人物であり、約10万人が棺を見送ったと伝わる[要出典]

その後、1999年に現地有志により台北県三芝郷(現・新北市三芝区)の福音山基督教墓地へ改葬されている。台北市で国際文化基金会主催の「明石元二郎総督の業績をたたえるシンポジウム」(2002年)が開催されるなど、台湾の人々の心に生き続けた。

墓前にあった鳥居(#画像1)は林森公園の整備中、二二八和平公園内に仮設され、2010年11月に再び元の地に戻された[注 7]

生誕地に近い勝立寺には遺髪と爪を収めた墓がある[46]。偉業が祖国で忘れられたと惜しむ福岡県郷友連盟ほか有志は、明石が生まれた福岡に顕彰碑を建立する企画を動かす。碑は福岡の筥崎宮に立ち、除幕式には能楽師大倉正之助氏が囃子大倉流の大鼓を献納し、石原進安倍晋三から届いた祝電を読み上げた[要出典]

家族

栄典・授章・授賞

位階
爵位
勲章等
受章年 略綬 勲章名 備考
1889年(明治22年)11月29日 大日本帝国憲法発布記念章[65]
1895年(明治28年)11月18日 明治二十七八年従軍記章[66]
1895年(明治28年)12月14日 功四級金鵄勲章[67]
1895年(明治28年)12月14日 勲六等瑞宝章[67]
1901年(明治34年)5月31日 勲五等瑞宝章[68]
1901年(明治34年)12月28日 勲四等瑞宝章[69]
1902年(明治35年)5月10日 明治三十三年従軍記章[70]
1906年(明治39年)4月1日 功三級金鵄勲章[71]
1906年(明治39年)4月1日 勲三等旭日中綬章[71]
1906年(明治39年)4月1日 明治三十七八年従軍記章[71]
1908年(明治41年)12月1日 勲二等瑞宝章[72]
1909年(明治42年)4月18日 皇太子渡韓記念章[73]
1911年(明治44年)6月13日 旭日重光章[74]
1912年(大正元年)8月1日 韓国併合記念章[75]
1915年(大正4年)11月1日 勲一等瑞宝章[76]
1915年(大正4年)11月7日 旭日大綬章[77]
1915年(大正4年)11月7日 大正三四年従軍記章[77]
1915年(大正4年)11月10日 大礼記念章[78]
1919年(大正8年)10月26日 戦捷記章[79]
外国勲章佩用允許
受章年 国籍 略綬 勲章名 備考
1898年(明治31年)10月12日 安南帝国 旌能龍星勲章英語版[80]
1900年(明治33年)4月17日 スペイン王国 メリットミリテール第二級勲章スペイン語版[81]
1905年(明治38年)4月1日 スウェーデン王国 レペー勲章英語版コマンドールヅージエームクラス[82]
1910年(明治43年)8月28日 大韓帝国 勲一等太極章[83][84]

エピソード

陸軍幼年学校時代の明石は、稲荷神に供えられた赤飯の盗み食い常習犯であり、また夜中にボートに乗って転覆させたりなど悪戯を繰り返していたが、教師や先輩、友人などから嫌われたり憎まれたりすることはなかった。陸軍士官学校時代も、周りの同僚や先輩などから好かれており、何かにつけ明石のもとに集まったり、噂の対象になっていたという[85]製図の授業の際、明石は鼻水を垂らしながらもそれを手で拭い、さらにその手で図面をいじっては真っ黒にしてしまっていた[86]

服装について無頓着であり、陸軍士官学校時代、制服のズボンが緩く、へそを出しながらズボンの裾を引きずって歩いていた[87]陸大時代は下宿に猫を1匹飼っており、軍服に猫の毛を付けたまま講義に出席していたようである。ほとんど歯を磨く習慣がなく、それが晩年まで続いた[87]。ヨーロッパ赴任中、泥靴のまま公使館に入り、そのまま平気な顔をしていた[87]

協調性に欠けていて風采が上がらず、また運動音痴であったとされており、ロシア公使館付陸軍武官時代(1902年赴任)の上司にあたる駐露公使の栗野慎一郎でさえ、明石の能力を見抜けず開戦の直前に外務省に「優秀な間諜が欲しい」と要請したほどであった。栗野は明石と同じ 修猷館出身である[88]

外国語[89]と算術に長けていた。あるパーティでドイツとロシアの士官と同席した折に、ドイツの士官が明石にフランス語で「貴官はドイツ語ができますか」と聞いてきた。明石は「フランス語がやっとです」とわざと下手なフランス語で答えた。すると、そのドイツの士官は明石を無視して、ドイツ語でロシアの士官と重要な機密について話し始めた。しかし明石は実はドイツ語を完璧に理解し、その機密をすべて聞き取ったという。明石はフランス語、ロシア語、英語も完璧に理解していた[90]。ロシアで名乗った偽名を、「アバズレーエフ」という[91][92]

製図書きにも優れており、ある外国人のパーティに出席した際、名刺を忘れた八代六郎のためにその場で器用に紙を裂き、まるで印刷してあったかのように文字を入れ、10枚ばかり即席の名刺を作成した[86]

整理整頓に無頓着な明石は台湾総督時、官邸を一切掃除させず、身辺が荒れ放題となっていた[87]。絵葉書が好きで、玄関・応接間・寝室など家中に絵葉書を貼りつけたため、まるで7、8歳の子供部屋のようになっていた[87]。何かに熱中すると、ほかのことを完全に忘れてしまう性格でもあった。上原勇作の手引きで山縣有朋と対談した時、どんどん話にのめりこんでゆき、しまいには小便を垂れ流していることに気がつかずそのまま熱弁を振るうに至ってしまった。山縣もその熱意にほだされ、小便を気にしながら対談を続けざるを得なかったという[86]。日露戦争を経て高位高官に昇っても、明石は薄汚い布団で犬を抱きながら寝ていた[87]

日清戦争後の参謀本部勤務中に勃発した米西戦争では、観戦武官としてフィリピンに赴いた。この時、アメリカ軍は陸戦ではスペイン軍とは直接交戦せず、フィリピン独立運動の指導者アギナルドの率いる市民軍に武器を融通し資金を援助している。同市民軍が各地の戦いでスペイン軍を撃破し駆逐する様子を観た明石は、「敵の中の反対勢力を支援する」というヒントを得た。これを活かして明石の行ったロシア革命工作は、後に陸軍中野学校で諜報活動のモデルケースとして講義されている[93]

私生活

任務としてスパイ活動や憲兵政治など社会の暗部で活躍したが、私生活では極めて清廉であった。#工作資金の残余27万円を長岡参謀次長に精算した。

長男の明石元長は、根本博と通訳の吉村是二を国共内戦での国民党軍事顧問とすべく、昭和24年(1949年)6月、日本から台湾に密入国させようと尽力した[注 10]。しかし、その首尾も帰国(1952年6月)も見届けることなく、元長は根本らの出国からわずか4日後に、激しい過労により42歳で急死する。2009年10月25日、台湾で古寧頭戦役60周年式典が行われ、招待を受けた元長の子孫は日本人軍事顧問団の遺族とともに歓待された[50]

著書

  • 『落花流水:明石元二郎大将遺稿』(陸軍参謀本部に対する復命書、国立国会図書館所蔵)
    • 金子 堅太郎、竹下 勇、明石 元二郎、倉知 鉄吉、船越 光之丞『金子堅太郎 竹下勇 明石元二郎 倉知鉄吉 船越光之丞』 第2巻 近代未刊史料叢書5、広瀬 順晧 監修・編・解題、ゆまに書房〈近代外交回顧録〉、2000年。ISBN 4897149878CRID 1130000794617602816 
  • 明石 元二郎、尚友倶楽部、広瀬 順晧、日向玲理、長谷川 貴志 著、尚友倶楽部史料調査室 編『寺内正毅宛明石元二郎書翰 : 付『落花流水』原稿(『大秘書』)』芙蓉書房出版〈尚友ブックレット : 憲政資料シリーズ〉、2014年。 ISBN 9784829506219CRID 1130282271202306304 

演じた俳優

参考文献

本文の典拠。主な執筆者、編者の順。


関連文献

発行年順。本文に未使用の資料。

科学研究費助成事業 年度順

(1)2006年2月(平成18年)、個人より受贈、公開。(2)2018年7月27日(平成30年)追加公開分は2017年12月(平成29年)、個人より受贈。

  • 書簡、辞令等。日記(計43冊:日記1915年から死去直前まで)に戦後は記述のない日も多いが、第4次吉田内閣発足、石井自身の自民党総裁選出馬、岸首相とのやり取りなどを記す。書簡は吉田茂、緒方竹虎、下村宏発信のもの他。
  • 『思い出の記』関係資料は、アルバム8冊と口述テープ25本で構成。

書籍、定期刊行物ほか

小山 勝清『煽動大煽動 : 明石大佐対露革命工作』(初版)原書房〈原書房・100冊選書〉、1966年。 CRID 1130282271901561216 

太田耐造[注 11]の旧蔵文書

脚注

注釈

  1. ^ 福岡藩黒田家の家中で、最上位の家格「中老」に次ぐ2番目の家格[5]
  2. ^ ソビエト連邦時代、対日情報工作の強化はゾルゲ事件のように一部、明るみに出る。
  3. ^ 著者ドミトリー・パブロフウィキデータ1954年生まれ。モスクワ大学歴史学部卒、歴史学博士。投稿当時モスクワ工科大学教授。著書に『露日戦争』『メンシェビキ』『第一次ロシア革命』など。また稲葉千晴と共編した目録『ロシア共産党文書館日本関連文書目録(1904-1954年)』[31]がある
  4. ^ 明石が費やした工作資金100万円は、今の価値で400億円以上[独自研究?]に相当。その一例として、 革命工作資金の100万円のうち27万円が使い切れずに残ってしまった。本来、軍の機密に関する金で精算の必要はないのだが、明石は明細書を付けて長岡外史参謀次長に全額の収支を示し残金を返納した。うち100ルーブル不足していたが、明石が列車のトイレで落としてしまった分であった。[要出典]
  5. ^ 後に第8〜9期中華民国総統をつとめた李登輝京都帝国大学出身である[43]
  6. ^ 石井光次郎が緒方竹虎との新春対談において語った内容(1956年1月)[44]
  7. ^ ただし元の位置に正確に戻されたわけではなく、秘書官鎌田正威の墓前にあった小鳥居(#画像3の向かって右)も移設して、#これと並べた[45]
  8. ^ ノブの姉が嫁いだ黒田家は、黒田孝高(官兵衛)の母方の祖母岩姫(1532年-1560年)を介して、明石安正(父は明石正風)がある[49]
  9. ^ 甥の明石泰二郎は陸士27期、陸軍少将[3]
  10. ^ 根本博と吉村是二通訳の密航は、宮崎県延岡市の海岸から出発[要出典]
  11. ^ ゾルゲ事件の担当検事の一人で司法省刑事局の要職にあった。

出典

  1. ^ a b c d e 『官報』第2174号 1919, p. 41
  2. ^ 「敍任及辞令 / 大正7年6月6日 /任台湾総督 陸軍中将正三位勲一等功三級 明石元二郎」『官報』第1753号、1918年6月7日、176頁、doi:10.11501/2953866国立国会図書館書誌ID: 000000078538-d2953866 
  3. ^ a b c 半藤 2013, 位置No.3808-3818陸軍大将略歴〔大正期〕:明石元二郎[要文献特定詳細情報]
  4. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰『コンサイス日本人名辞典 第5版』11頁(株式会社三省堂、2009年)。
  5. ^ No.380 企画展 「武士の履歴書」(平成23年2月15日 - 4月10日)”. 福岡市博物館. 2022年3月21日閲覧。
  6. ^ 野村 2005, ずんだれ士官は往く
  7. ^ 半藤 2013, 位置番号 1258-1371、明石元二郎:日露戦争の功労者か探偵政治の悪魔か[要文献特定詳細情報]
  8. ^ 『官報』第151号、明治16年12月27日。
  9. ^ 「敍任及辞令 - / - / 任統監府警務総長 陸軍少佐正5位勲二等功三級 明石元二郎」『官報』第8108号、1910年7月2日、39頁、doi:10.11501/2951460国立国会図書館書誌ID: 000000078538-d2951460 
  10. ^ 「辞令- / - / 免兼職(1月12日海軍省) 参謀本部部員 兼 陸軍歩兵中佐 明石元二郎(海軍省)」『官報』第5257号、1901年1月14日、117頁、doi:10.11501/2948553国立国会図書館書誌ID: 000000078538-d2948553 明治34年
  11. ^ 「敍任及辞令 - / - / 佛国駐在員取締兼勤ヲ免ス 露国公使館附陸軍歩兵中佐 明石元二郎(以上八明十日陸軍省)」『官報』第5739号、1902年8月20日、302頁、doi:10.11501/2949042国立国会図書館書誌ID: 000000078538-d2949042 明治35年
  12. ^ 『官報』第5739号 1901, p. 302
  13. ^ 瀧澤 2008, p. 145
  14. ^ ジャイルズ・ミルトン 著、築地誠子 訳「目次・あらすじ : 第2部 一流のスパイたち(シドニー・ライリー ジョージ・ヒル フレデリック・ベイリー ロシア転覆計画 ダシケントの革命政府 ロシア追放 命がけのゲーム ただならぬ脅威)」『レーニン対イギリス秘密情報部』原書房、2016年3月。 ISBN 978-4-562-05256-1NCID BB21078754国立国会図書館書誌ID: 027108321NDLJP:10954505https://opac2018.lib.meiji.ac.jp/webopac/BB007743922017年9月17日閲覧 
  15. ^ Zilliacus, Konni (1896). Japanesiska studier och skizzer. Wentzel Hagelstams 
  16. ^ 岩畔 1988, NDLJP:7975433
  17. ^ 瀧澤 2008, p. 146
  18. ^ 大場弥平「日露戦争を勝利に導いた男 : ―ロシア革命に点火した快男児・明石元次郎風雲の秘録!」『特集人物往来』第1巻第2号、人物往来社、1956年6月、126-139頁、NDLJP:2234575 
  19. ^ a b 杉森 1974, (コマ番号: 49, 57, 90)
  20. ^ フィンランド革命党[19]
  21. ^ 瀧澤 2008, p. 147-148
  22. ^ 瀧澤 2008, p. 163-164
  23. ^ a b 半藤、横山、秦、原 2009, p. [要ページ番号]
  24. ^ 司馬 1999, 「(六)第3章 大諜報」
  25. ^ 今井公雄 (1991年6月). “大国ロシアを震撼させた陰の将軍”. 『歴史群像シリーズ(日露戦争)』24. 2005年4月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年1月24日閲覧。 リンク先の著者のウェブサイトで同記事が読める。
  26. ^ 稲葉 1995, p. [要ページ番号]〈丸善ライブラリー〉
  27. ^ 秦郁彦 (2003年8月). “明石元二郎の破壊活動は失敗した”. 明治・大正・昭和30の「真実」. 文藝春秋. 2009年1月24日閲覧。
    なお、同書では乃木希典についても司馬が揶揄したような愚将ではないことを実証的に主張した[要ページ番号]
  28. ^ 稲葉千晴 (2000年12月). “スウェーデンに於ける日本の工作は失敗だったか~”. 北欧文化協会. 2009年1月24日閲覧。
  29. ^ 西原和海『スパイひみつ大作戦』小学館〈小学館入門百科シリーズ 37〉、[要ページ番号]頁。国立国会図書館書誌ID: 000000793285 
  30. ^ a b ドミトリー・パブロフ日露戦争で暗躍した「もう一人のゾルゲ」」『フォーサイト』、新潮社、2005年7月。 
  31. ^ 稲葉千晴、D・B・パヴロフ 編『ロシア共産党文書館日本関連文書目録(1904-1954年)』ロシア共産党文書館、ナウカ、2001年。 ISBN 4888460469CRID 1130000798152345088 書名のロシア語表記はРоссийский государственный архив социально-политической истории : каталог документов о Японии,1904-1954 гг.
    • 地名索引: 巻末505-514頁、「人名索引」: 巻末515-541頁、「事項索引」: 巻末542-572頁
  32. ^ 西部邁、黒鉄ヒロシ『もはや、これまで: 経綸酔狂問答』PHP研究所、2013年、152頁。 ISBN 978-4-569-81390-5 
  33. ^ 朝鮮総督府「敍任及辞令 - / - / 学術実地研究ノ為栃木県下ヘ出張ヲ命ズ(以上三月三日朝鮮総督府) 朝鮮総督府警務総長 明石元二郎等」『官報』第8311号、1911年3月9日、214頁、doi:10.11501/2951666国立国会図書館書誌ID: 000000078538-d2951666 明治44年。
  34. ^ 朝鮮総督府「敍任及辞令 - / - / 朝鮮総督府警務総長 明石元二郎 下関市ヘ旅行ノ序ヲ以テ上京ヲ命ス)」『官報』第8550号、1911年12月19日、443頁、doi:10.11501/2951907国立国会図書館書誌ID: 000000078538-d2951907 明治44年
  35. ^ 朝鮮総督府「敍任及辞令 - / - / 東京ヘ出張ヲ命ス 朝鮮総督府警務総長 明石元二郎」『官報』第17号、1912年8月19日、320頁、doi:10.11501/2952110国立国会図書館書誌ID: 000000078538-d2952110 大正元年
  36. ^ a b “Die Annextion Koreas Japan” (ドイツ語). Münchner Allgemeine Zeitung. (1910年9月21日) 
  37. ^ “Japanese Efforts to Create International Approval: "Gagging Korea: Japan Doesn't Want the World to Know Much about Korea and Her Bitter Fate"” (英語). Acta Koreana, (2): 312-. (2019-12-02). [36]
  38. ^ Erwin Bälz (1910年10月2日). “Korea von seinen Anfängen bis zu seinem Ende” (ドイツ語). Frankfurter Zeitung 
  39. ^ 瀧澤 2008, p. 180-181
  40. ^ 上沼, 1991a & 高千穂論叢, pp. 25–26
  41. ^ 上沼 1991b, pp. 25–27
  42. ^ 『台湾教育令』(大正8年)[40]、同大正11年の背景[41]
  43. ^ 千 宗守「枳殻(からたち)の路から 重苦しい夏の思い出 : 故李登輝元台湾総統を偲んで」『起風』第26巻第4号、官休庵、2020年、8-16頁、 CRID 1523388079663257856 
  44. ^ 『緒方竹虎』 1956修猷通信
  45. ^ 早川友久. “鳥居顛末”. 日本李登輝友の会 台北事務所. 2025年5月31日閲覧。
  46. ^ 緑地の中に残る鳥居の謎 : 明石元二郎と台湾”. nippon.com (2020年5月2日). 2025年6月1日閲覧。
  47. ^ 武谷水城「郡葆淙翁略伝」『筑紫史談』 第18集、筑紫史談会、1918年、45頁。 
  48. ^ 『平成新修旧華族家系大成』 上巻、霞会館、1996年、13頁。doi:10.11501/14011092 
  49. ^ 小森徳治『明石元二郎』 上巻、原書房、1968年、[要ページ番号]頁。 
  50. ^ a b 古寧頭戦役60周年に日本の軍事顧問団関係者の家族らが台湾を訪問」『台湾週報台北駐日経済文化代表処、2009年10月27日。オリジナルの2010年8月18日時点におけるアーカイブ。2011年11月25日閲覧。
  51. ^ 明石元二郎」『人事興信録』1903年4月。 
  52. ^ 明石元二郎」『人事興信録』1915年1月。 
  53. ^ 『官報』第228号「叙任」1884年4月7日。
  54. ^ 『官報』第1820号「叙任及辞令」1889年7月24日。
  55. ^ 『官報』第2558号「叙任及辞令」1892年1月13日。
  56. ^ 『官報』第3840号「叙任及辞令」1896年4月21日。
  57. ^ 『官報』第5304号「叙任及辞令」1901年3月12日。
  58. ^ 『官報』第6188号「叙任及辞令」1904年2月20日。
  59. ^ 『官報』第7337号「叙任及辞令」1907年12月11日。
  60. ^ 『官報』第126号「叙任及辞令」1912年12月29日。
  61. ^ 「敍任及辞令 - / - / ○大正四年十月四日 補第六師団長 陸軍中将従四位勲二等功三級 明石元二郎」『官報』第953号、1915年10月5日、101頁、doi:10.11501/2953061国立国会図書館書誌ID: 000000078538-d2953061 大正4年
  62. ^ 『官報』第967号「叙任及辞令」1915年10月21日。
  63. ^ 『官報』第1799号「叙任及辞令」1918年8月1日。
  64. ^ a b 『官報』第2169号「叙任及辞令」1919年10月27日。
  65. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1889年12月29日。
  66. ^ 『官報』第3849号・付録「辞令」1896年5月1日。
  67. ^ a b 『官報』第3741号「叙任及辞令」1895年12月16日。
  68. ^ 『官報』第5374号「叙任及辞令」1901年6月4日。
  69. ^ 『官報』第5613号「叙任及辞令」1902年3月25日。
  70. ^ 『官報』第5820号・付録「辞令」1902年11月26日。
  71. ^ a b c 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月8日。
  72. ^ 『官報』第7808号・付録「辞令」1909年7月6日。
  73. ^ 『官報』第7771号「叙任及辞令」1909年5月24日。
  74. ^ 『官報』第8392号「叙任及辞令」1911年6月14日。
  75. ^ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
  76. ^ 「敍任及辞令 ○大正4年11月1日 / 敍勲一等授瑞宝章 / 正四位勲二等功三級 明石元二郎」『官報』第979号、1915年11月4日、102頁、doi:10.11501/2953087国立国会図書館書誌ID: 000000078538-d2953087 
  77. ^ a b 『官報』第1194号「叙任及辞令」1916年7月24日。
  78. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  79. ^ 『官報』第2903号「叙任及辞令」1922年4月10日。
  80. ^ 『官報』第4590号「敍任及辞令」1898年10月15日。
  81. ^ 『官報』第5039号「叙任及辞令」1900年4月23日。
  82. ^ 『官報』第6531号「叙任及辞令」1905年4月12日。
  83. ^ 「敍任及辞令 - / - / 陸軍少将従五位勲二等功三級 明石元二郎 韓国皇帝陛下ヨリ贈与シタル勲一等太極章ヲ受領シ及ビ佩用スルヲ允許セラル(1910年(明治43年)8月28日付)」『官報』第8324号、1911年6月2日、621頁、doi:10.11501/2951739国立国会図書館書誌ID: 000000078538-d2951680 明治44年
  84. ^ 「敍任及辞令 - / - / 陸軍少将従五位勲二等功三級 明石元二郎 韓国皇帝陛下ヨリ贈与シタル勲一等太極章ヲ受領シ及ヒ佩用スルヲ允許セラル」『官報』第8382号、1911年6月2日、39頁、doi:10.11501/2951739国立国会図書館書誌ID: 000000078538-d2951739 明治44年
  85. ^ 瀧澤 2008, p. 175
  86. ^ a b c 瀧澤 2008, p. 172
  87. ^ a b c d e f 瀧澤 2008, p. 171
  88. ^ 近代日本を作った藩校の息吹 外交戦略の源流」第13回全国藩校サミット 福岡大会 修猷山脈、2015年10月3日。2025年1月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年1月25日閲覧
  89. ^ 半藤、横山、秦、原 2009, p. [要ページ番号]
  90. ^ 半藤、横山、秦、原 2009, p. [要ページ番号]
  91. ^ 岩畔豪雄「3代謀略秘話」『財界』第15巻第8号、財界研究所、1967年5月、114-117頁、NDLJP:26971152025年6月17日閲覧 国立国会図書館デジタルコレクション。
  92. ^ 「[CITEREF岩畔1988]」『歴史読本』第33巻12(通号479)、Kadokawa、1988年6月、doi:10.11501/7975433NDLJP:7975433。「2個師団に匹敵した工作▽1864–1919▽日本陸軍大佐(後に陸軍大将)▽児玉参謀次長直轄▽アバズレーエフ▽明治37(1904)年の日露戦争開戦時、ロシア公使館付武官。開戦によりストックホルムに移動(以下略)。」 国立国会図書館デジタルコレクション。
  93. ^ 楳本 2010[要ページ番号]
  94. ^ 1989年度 実績報告書 (KAKENHI-PROJECT-01510156)”. kaken.nii.ac.jp. KAKEN — 研究課題をさがす. 2025年5月31日閲覧。
  95. ^ 1990年度 実績報告書 (KAKENHI-PROJECT-01510156)”. kaken.nii.ac.jp. KAKEN — 研究課題をさがす. 2025年5月31日閲覧。
  96. ^ ゲームジャーナル編集部 編『坂の上の雲5つの疑問』並木書房、2011年。 ISBN 4890632840国立国会図書館書誌ID: 023159668 
      • 初出 1968年(昭和43年)。通説の普及に影響を及ぼしたと各研究者[誰?]から指摘されている。
    個人を軸としながら日露戦争期を含む明治・大正期の日本の軍事諜報活動を俯瞰している。本書の説では明石もその駒の一つ。
  97. ^ 稲葉千晴「日露戦争 : 明石大佐とロシア革命運動」『明石元二郎』小森 徳治、台湾日日新報社、1928年。 NCID BN09420907 
  98. ^ 軍事史学会(編)「黒羽茂『日ソ諜報戦の軌跡 : 明石工作とゾルゲ工作」『軍事史学』第27巻第4号、錦正社、1992年3月、102-103頁、doi:10.11501/2661983国立国会図書館書誌ID: 000000006142-d2661983 
  99. ^ 清水 亮太郎(戦史研究センター主任研究官) (2022年12月15日). “ゾルゲ諜報団と日米開戦 : ゾルゲは真珠湾攻撃を知っていたのか : はじめに” (PDF). NIDSコメンタリー. 防衛研究所. 2023年1月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年6月17日閲覧。 “第249号”

関連項目

50音順。

人名は姓の順。

外部リンク

公職
先代
岡喜七郎
朝鮮統監府警務総長
第3代:1910年7月1日 - 1914年4月17日
次代
立花小一郎
先代
安東貞美
台湾総督
第7代:1918年6月6日 - 1919年10月26日
次代
田健治郎
軍職
先代
梅沢道治
第6師団長
第11代:1915年10月4日 - 1918年6月6日
次代
小池安之
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
明石(元二郎)家初代
1919年
次代
明石元長

明石元二郎(陸士旧6期)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 14:37 UTC 版)

駐在武官」の記事における「明石元二郎(陸士6期)」の解説

日露戦争直前1902年明治35年)にロシア公使館付武官となる。駐仏公使館付武官経験する。後に陸軍大将

※この「明石元二郎(陸士旧6期)」の解説は、「駐在武官」の解説の一部です。
「明石元二郎(陸士旧6期)」を含む「駐在武官」の記事については、「駐在武官」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「明石元二郎」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



明石元二郎と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「明石元二郎」の関連用語

明石元二郎のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



明石元二郎のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
国立公文書館 アジア歴史資料センター国立公文書館 アジア歴史資料センター
All rights reserved/Copyright(c) Japan Center for Asian Historical Records
国立国会図書館国立国会図書館
Copyright (C) 2025 National Diet Library, Japan. All Rights Reserved.
株式会社思文閣株式会社思文閣
Copyright(c)2025 SHIBUNKAKU Co., Ltd. ALL RIGHTS RESERVED.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの明石元二郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの駐在武官 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS