台湾日日新報とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 製品 > 出版物 > 新聞 > 台湾の新聞 > 台湾日日新報の意味・解説 

台湾日日新報

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/21 14:29 UTC 版)

台湾日日新報社

台湾日日新報』(たいわんにちにちしんぽう)とは、日本統治時代の台湾において1898年明治31年)5月1日に創刊され、日本統治時代最大で、もっとも長続きした新聞である[1]。『台湾新報』と『台湾日報』の後身。

前史

1896年(明治29年)に『台湾新報』が初代台湾総督樺山資紀と同郷(薩摩)の民間人により創刊された。創刊後僅か3週間で台湾総督府により官報として使用されるようになり、毎年4,800円の公的補助を受けるようになった。その後、『台湾日報』が第2代台湾総督の桂太郎の支援の下、桂と同郷(長州)の民間人により創刊された。総督府による年間25,000円の公的補助を受けるようになった。かくして台湾で二大政府系新聞が登場すると思われたが、両紙は既得権益を巡る対立に起因し、かつ両紙がそれぞれ薩摩系と長州系とみなされたことも加わり、激しい競争を開始した。政策面でも一方が賛成すれば、自動的にもう一方が反対する論調を繰り返し、両紙記者が市内で乱闘を行なうこともあった[2]

『台湾日日新報』発行

このような状況の下、第4代台湾総督児玉源太郎下で民政長官を務めた後藤新平(いわゆる児玉・後藤政治)は、上意下達と官民意思の疎通の手段を整備することが急務と感じ、両紙を速やかに統合しなければならないと考えた。後藤は、旧知の守屋善兵衛に指示し、両紙の買収をさせた。台湾の実業家賀田金三郎の仲介と出資を経て1898年(明治31年)5月1日『台湾日日新報』が創刊された[2]。また、新聞報道とは別に、総督が公布する行政や司法関係の命令を掲載する『府報』及び台北及び新竹で『州報』を発行した。『台湾日日新報』は総督府の支援を受け、日本統治時代の台湾で最大の新聞としての地位を確立し、『台湾新聞』や『台南新報』とともに三大新聞と呼ばれた。最盛期の発行部数は5万部を記録し、総計1万5800号あまりを発行した[1]

三大新聞の発行部数の変化
台湾日日新報 台湾新聞 台南新報
1924年 18,970 9,961 15,026
1935年 49,952 30,000 25,386
1936年 53,517 51,880 36,761
1937年 58,040 31,000 37,744
1938年 59,201 31,100 38,065
1939年 68,392 12,348 40,185

1901年(明治34年)11月より、8面のうち2ページを中国語版とし、1905年(明治38年)7月からは、『漢文台湾日日新報』の名で4ページの独立した新聞を発行した。しかし、1911年(明治44年)には財政困難の理由により、日本語版の中に2ページの中国語版を付す姿に戻された。この中国語版も1937年(昭和12年)4月には、総督府の「皇民化」政策により廃止されることになった[1]

『台湾日日新報』のその後

太平洋戦争の激化に伴う戦時報道統制により、1944年4月1日に総督府がこの当時の他の主要日刊紙である『興南新聞[注釈 1]』(本社・台北)、『台湾新聞』(同・台中)、『台湾日報[注釈 2]』(同・台南)、『高雄新報』(同・高雄)、『東台湾新聞』(同・花蓮港)の5紙と統合させ、『台湾新報』(新)とした[3]。この『台湾新報』(新)は、戦時下の厳しい紙事情にかかわらず、発行部数16万7000部であった[3]。太平洋戦争での日本の敗戦後は『台湾新報』(新)は国民政府により接収され、『台湾新生報中国語版』と改称された[4]

台湾日日新報社の発行物

台湾新報社の発行物や特記するものを除き、編集はいずれも台湾日日新報社による。台湾総督府図書館の蔵書目録より。

種別 題名 発行年 冊、類、号 備考
§070 台湾ノ部 台湾一覧 明治45年 1-070-3号 [7]
§070 台湾要覧 大正5年 1-070-21号 [8]
§07045 雑誌・新聞紙 【教育歴史資料】台湾日日写真画報 大正5年8月

大正7年1月

2-0705-29号 第1、2年[9][10]
§07045 雑誌・新聞紙 台湾新報 明治29年6月27日

明治31年42月9月

[特]5-新1 第1号–489号、台湾新報社 発行〔以降、台湾日日新報に改題〕[11]
§07045 雑誌・新聞紙 台湾新聞 大正4年1月1日– 新4 4293号–、台湾新聞社 発行 [1]
§07045 雑誌・新聞紙 台湾日日新報 明治31年5月1日– 新2 第1号–〔『台湾新報』を改題〕(内明治33年10月欠)[2]
§07045 雑誌・新聞紙 漢文台湾日日新報 明治38年7月21日

明治43年12日31日

新2 第2165号–4077号〔台湾日日新報付録。以後、台湾日日新報に併合〕[3][4]
§07045 雑誌・新聞紙 漢文台湾日日新報 明治38年7月21日

明治43年12月31日

新3 第2165号–第4077号〔『台湾新報』を改題、台湾日々新報付録。〕(内明治33年10月欠)[5]
§0748 名勝、案内記、写真帖 児玉総督凱旋、歓迎記念写真帖 明治39年 1-0708-4号 [6]
§0748 名勝、案内記、写真帖 大正2年討蕃記念写真帖 大正2年 1-0708-6号 [7]
§0748 名勝、案内記、写真帖 大正3年討蕃軍隊記念写真帖 大正3年 1-0708-7号 [8]
§0748 名勝、案内記、写真帖 大正3年討蕃警察隊記念写真帖 大正4年 1-0708-5号 [9]
§0752 法規、行政、司法制度 新旧対照管轄便覧 大正10年 1-0752-114号 [10]
§0752 法規、行政、司法制度 管轄要覧 大正4年 1-0752-45号 全70頁[11]
§0752 法規、行政、司法制度 台湾地方制度要覧 大正9年 1-0752-78号 [12]
§0755 財政、租税、専売 台湾所得税令及同施行規則 付申告手引 大正10年 1-0755-27号 [13]
§0757 統計 台湾形成一覧 大正7年 1-0757-3号 [14]
§0759 社会、風俗、習慣、歳時記、救済 台湾日々新報(第1701号) 大正7年 1-0759-4号 [15]
§0759 社会、風俗、習慣、歳時記、救済 中国語: 纒足之弊害及救済〔漢文〕 大正4年 1-0759-4号 [16]
§0761 気象、地震、暦 南部台湾震災写真帖 明治39年 1-0761-3号 [17]
§0767 医事、衛生 内地人の健康法 明治39年 1-0767-7号 [18]

関連項目

  • 目黒区立図書館 - 社長を務めた守屋善兵衛(1866年 - 1930年)邸跡を目黒区が受贈した。
    • 守屋記念館を開設。
    • 守屋図書館を開館(1952年) - 善兵衛旧蔵の書籍や台湾日日新報(守屋善兵衛氏コレクション)を収蔵[5][注釈 3]
    • 区立守屋教育研究所[1]。

脚注

注釈

  1. ^ 台湾民報』の後身。
  2. ^ 1937年『台南新報』から改題されたもの。前述『台湾日報』とは別。
  3. ^ 地所の受贈当初、守屋記念館を設けた。

出典

  1. ^ a b c 呉(2010年)150ページ
  2. ^ a b 李(2014年)3ページ
  3. ^ a b 藤井(1999年)196ページ
  4. ^ 若林(2001年)273ページ
  5. ^ 守屋善兵衛氏コレクション”. 目黒区立図書館. 2018年8月19日閲覧。

参考文献

  • 呉密察監修、日本語版翻訳横澤泰夫「台湾史小事典改定増補版」中国書店(2010年)150ページ
  • 李佩蓉「日本統治時代初期の台湾における漢字新聞の研究『漢文台湾日日新報』(1905)の創刊経緯とその背景を中心に」日本マス・コミュニケーション・2014年度春季研究発表会・研究発表論文(2014年)
  • 藤井省三「現代中国文化探検-四つの都市の物語-」岩波新書(1999年)
  • 若林正丈「矢内原忠雄『帝国主義下の台湾』精読」岩波書店(2001年)

関連項目

外部リンク





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「台湾日日新報」の関連用語

台湾日日新報のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



台湾日日新報のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの台湾日日新報 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS