『台湾日報』との合併と『台湾日日新報』とは? わかりやすく解説

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『台湾日報』との合併と『台湾日日新報』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/19 06:52 UTC 版)

台湾新報」の記事における「『台湾日報』との合併と『台湾日日新報』」の解説

その後第2代台湾総督桂太郎就任直後1896年明治29年6月から8月にかけて台中県雲林で、日本陸軍による地元住民虐殺事件雲林虐殺事件)が発生し総督府欧米諸国への情報発信の不足を痛感することになった。そこで、「台湾における施政上の機関として完全なる日刊新聞発行を致すべき必要有り」として、同郷長州)の民間人河村隆実に新聞発行依頼された。この結果台湾日報』が発行された。このようにして、二紙が並立することになったのだが、両紙には違いがあった。。先行の『台湾新報』の記事は、総督府意見代弁し、その政策擁護する特徴があった。これに対し後行の『台湾日報』は、前述した発行沿革からして総督府資金援助をうけるものの、在台民間日本人意見掲載するという姿勢とっていた。しかし、やがて薩摩長州派閥争いもあり、両紙の競争関係が激しくなり、ときに記者同士乱闘も起こるようになったこのような状況の下、第4代台湾総督児玉源太郎下で民政長官務めた後藤新平いわゆる児玉・後藤政治」)は、上意下達および官民意思疎通の手段の整備急務感じ、両紙の過剰な競合解決しようとした。後藤は、旧知守屋善兵衛指示し、両紙の買収をさせた。その結果1898年明治31年5月台湾日日新報』が発行されることになり、『台湾新報ならびに台湾日報』はこれに吸収された。

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「『台湾日報』との合併と『台湾日日新報』」を含む「台湾新報」の記事については、「台湾新報」の概要を参照ください。

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