『台湾日報』との合併と『台湾日日新報』
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「台湾新報」の記事における「『台湾日報』との合併と『台湾日日新報』」の解説
その後、第2代台湾総督桂太郎の就任直後、1896年(明治29年)6月から8月にかけて台中県雲林で、日本陸軍による地元住民の虐殺事件(雲林虐殺事件)が発生し、総督府は欧米諸国への情報発信の不足を痛感することになった。そこで、「台湾における施政上の機関として完全なる日刊新聞を発行を致すべき必要有り」として、桂と同郷(長州)の民間人河村隆実に新聞発行が依頼された。この結果『台湾日報』が発行された。このようにして、二紙が並立することになったのだが、両紙には違いがあった。。先行の『台湾新報』の記事は、総督府の意見を代弁し、その政策を擁護する特徴があった。これに対し後行の『台湾日報』は、前述した発行の沿革からして総督府の資金援助をうけるものの、在台民間日本人の意見を掲載するという姿勢をとっていた。しかし、やがて薩摩・長州の派閥争いもあり、両紙の競争関係が激しくなり、ときに記者同士の乱闘も起こるようになった。このような状況の下、第4代台湾総督児玉源太郎下で民政長官を務めた後藤新平(いわゆる「児玉・後藤政治」)は、上意下達および官民意思疎通の手段の整備が急務と感じ、両紙の過剰な競合を解決しようとした。後藤は、旧知の守屋善兵衛に指示し、両紙の買収をさせた。その結果、1898年(明治31年)5月『台湾日日新報』が発行されることになり、『台湾新報』ならびに『台湾日報』はこれに吸収された。
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