オスマン帝国支配の確立とエジプトの反乱(16世紀)
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「オスマン帝国領エジプト」の記事における「オスマン帝国支配の確立とエジプトの反乱(16世紀)」の解説
1517年、オスマン帝国のスルターン・セリム1世(冷酷者、在位:1512年-1520年)はマムルーク朝を滅ぼしてエジプトを併合した。セリム1世は大宰相(英語版)ユヌス・パシャ(英語版)をエジプト総督(英語版)(ワーリー)に任命したが、間もなくハーイルバク(英語版)(ハユル・ベイ)にエジプトの支配を委ねた。彼はかつてマムルーク朝のアレッポ総督を務めていた人物であり、オスマン帝国とマムルーク朝の間の戦いであるマルジュ・ダービクの戦いでオスマン帝国の勝利に一役買っていた。 マムルーク朝時代にエジプトを支配していたマムルークたちはオスマン帝国の支配下に入っても引き続き行政職に深く関与しており、地方総督(監督官とも、カーシフ)の多くがマムルーク軍人であった。マムルークとは、幼少期に購入され軍事訓練を施された奴隷兵士であり、マムルーク朝時代のエジプトではマムルーク出身者がスルターン位を抑え、一種の特権階級を形成していた(詳細はマムルーク朝を参照)。オスマン帝国領エジプトの初期の歴史においては、マムルークたちとオスマン帝国のスルターンが任命した代理人との間の権力闘争が重要な要素の1つであった。大部分の土地がマムルークたちの領地であることを示した登記簿が変更されることなく残されており、マムルークたちは速やかに大きな影響力のある地位にも返り咲くことができた。 未だ統治体制が整わない中で行われたハーイルバクの過渡的な統治を経て、その死後にはオスマン帝国は任期付きの総督をイスタンブルから派遣してエジプトを統治するようになった。以降の歴史においてエジプト総督は概ね1年前後という非常に短い間隔で交代することになる。マムルーク軍人たちのオスマン帝国支配に対する抵抗は強く、1523年には既にオスマン帝国の総督に対してマムルーク出身のカーシフであるジャーニム(Jānim)とイーナール(Īnār)が反乱を起こしていた。そして1524年には4代目の総督ハイン・アフメト・パシャ(英語版)の反乱が発生した。アフメト・パシャはイスタンブルにおける大宰相職を巡る権力闘争に敗れてエジプト総督に赴任した人物であった。彼は自分に対する処刑命令が出たことを聞き、自ら独立した君主となるべく、オスマン帝国に敵意を持つマムルークやアラブ人部族と結んでスルターンに即位したことを宣言し、自らの名前を打刻したコインを発行した。しかし、アフメト・パシャの計画は彼が幽閉した2人のアミールたちによって挫折した。アミールたちは脱獄し、入浴中のアフメト・パシャを襲撃し殺害しようとした。アフメト・パシャは負傷しつつも難を逃れたが、間もなくオスマン帝国軍によって捕らえられ処刑された。 新たにオスマン帝国のスルターンとなったスレイマン1世(壮麗者、在位:1520年-1566年)は、エジプト支配の動揺を抑えるべく大宰相パルガル・イブラヒム・パシャを派遣し、エジプトのカーヌーン・ナーメ(地方行政法令集)を発行させた。これによってオスマン帝国のエジプト支配体制は一応の体系化がなされ安定した。 エジプトの政府機構が頻繁に変化したことでオスマン帝国統治の初期における軍の統制不能が引き起こされていたと思われ、さらに16世紀末から17世紀初頭にかけては財政難やインフレーションの影響で不満を持つ兵士たちの反乱が頻発するようになった。1604年、エジプト総督イブラヒム・パシャ(英語版)(前出のパルガルとは別人)が兵士たちに殺害され、彼の頭はズワイラ門(英語版)で晒された。この事件によって彼はマクトゥル(Maktul、「殺された者」)のあだ名(シュフラ)を冠して呼ばれる。この殺害事件の理由は、支出削減のための俸給減額と、トゥルバ(英語版)と呼ばれる税習慣を止めようとした歴代のパシャの試みであった。トゥルバは軍がエジプトの住民から実際には免除されるべき架空の債務を厳密かつ強制的に徴収するものであり、悲惨な悪用が行われていた。 これを制圧するため、1609年に反乱軍団とエジプト総督の間でほとんど内戦というべき戦いが勃発した。反乱兵士たちは自分たちでスルターンを選出することまで行い、カイロ地方を一時的に分割したが、新任のエジプト総督クルクラン・メフメト・パシャ(英語版)は自身の側に信用できる部隊とベドウィンたちを付けて彼らを撃破し、1610年2月5日に勝利のうちにカイロに入場した。反乱首謀者は処刑され、その他はイエメンに追放された。彼はこれによってクルクラン(Kul Kıran、「奴隷を打ち砕くもの」)とあだ名された。17世紀エジプトの年代記作家イブン・アビー・スルール(アラビア語版)は、この出来事を「オスマン帝国による第2のエジプト征服」と記した。その後、クルクラン・メフメト・パシャによって大規模な財政改革が実施された。彼はエジプトの様々なコミュニティに課せられていた負担を、彼らのやり方に沿って再調整し、トゥルバ税の廃止を命じる勅令も公布された。
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