オスマン帝国国内での政治闘争とは? わかりやすく解説

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オスマン帝国国内での政治闘争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 03:00 UTC 版)

大宰相府襲撃事件」の記事における「オスマン帝国国内での政治闘争」の解説

1908年青年トルコ人革命起こってスルタン・アブデュルハミト2世独裁政治終わりを告げると、オスマン帝国第二次立憲政へと突入する1909年反革命事件(3月31日事件)が鎮圧されスルタン派の勢力一掃されると、オスマン帝国国内では政治主導権を握るための政争幕を開ける青年トルコ人革命主導したのは統一派で、彼らは立憲政治復活アブデュルハミト体制打倒目指す青年トルコ人」と呼ばれる知識人階層属す集団であったが、一方青年トルコ人には統一派とは別の勢力存在していた。彼らは強力な中央政府によるオスマン帝国統一志向する統一派」に対し各民族自治重視した連邦制目指したために「分権派」と呼称された。 更に彼ら青年トルコ人勢力とは別にアブデュルハミト体制以前政治主役であった大宰相府務め政治家たち(青年トルコ人たちより上の世代で、かつて憲政成立貢献したオスマン人流れを汲む)や、3月31日事件鎮圧したことで影響力を持つようになったマフムト・シェヴケット・パシャら陸軍高官たち、自治権利向上を求め国内諸民族などの勢力存在し第二次立憲政は混沌極めていた。 こうした集団の中でまず与党の座についたのは統一派で、彼らは1908年普通選挙以来与党地位にあった当初自由主義的な集団目され統一であった反革命クーデターの発生オーストリアによるボスニア・ヘルツェゴビナ併合などの事件経てからは強権的施策での国家統制へと舵を切り、1909年集会出版ストライキ結社に関する規制法案制定し更にはアブデュルハミト時代までは兵役免除されていた非ムスリム徴兵対象含めるなどの強権政治を行うようになっていった。統一派はさらに「民族」の名を冠した組織の結成禁止する法案帝国内の諸民族民族運動抑制図りこうした強権政治国内から多く反発集めた統一派に対する不満は1910年3月から始まったアルバニア人反乱となって現れ統一派にも多くメンバー輩出していたアルバニア人反乱統一派に大きな衝撃与えた。更にアルバニアでの反乱つけこんでイタリアオスマン帝国領北アフリカ目的1911年9月伊土戦争起こすと、統一派はますますの苦境へと追い込まれる1911年11月になると統一派の統治能力疑問抱いた分権派を中心に統一派に反対する総て勢力集合した野党自由連合党」が結成され12月イスタンブルでの補欠選挙統一派に勝利した政権を失うことを恐れた統一派は1912年1月解散総選挙決行し、票操作までも行ったという不正選挙棍棒選挙」で政権維持企んだが、これは統一派に協力していた高級官僚軍人たち信用失い更には1912年5月分権派の青年将校たちによる反統一武装勢力救国将校団」の結成招いた国内反対激しくなったことを受けて統一であった大宰相メフメト・サイ―ト・パシャが辞任するといよいよ統一派は政権維持することが出来なくなり1912年7月統一派は野党へと転落する。この統一派の失権分権派たちは青年トルコ人革命に続く「第二革命」として喜んだが、統一政権の後に結成されたアフメト・ムフタル・パシャ内閣はその閣僚に一切青年トルコ人含まない大宰相府高級官僚たち主導内閣で、統一派の追放尽力した分権派たちは漁夫の利政権奪われた形になった一方統一派は本部があるサロニカでの再起目論んだが、新政権統一派の蜂起を防ぐためにサロニカ戒厳令敷き統一派の半公式機関紙『タニン』を発禁処分とした。こうして統一派はバルカン戦争が起こる1912年9月までに政府によって完全に追い込まれてしまったのである

※この「オスマン帝国国内での政治闘争」の解説は、「大宰相府襲撃事件」の解説の一部です。
「オスマン帝国国内での政治闘争」を含む「大宰相府襲撃事件」の記事については、「大宰相府襲撃事件」の概要を参照ください。

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