オスマン帝国国内での政治闘争
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「大宰相府襲撃事件」の記事における「オスマン帝国国内での政治闘争」の解説
1908年に青年トルコ人革命が起こってスルタン・アブデュルハミト2世の独裁政治が終わりを告げると、オスマン帝国は第二次立憲政へと突入する。1909年の反革命事件(3月31日事件)が鎮圧されてスルタン派の勢力が一掃されると、オスマン帝国の国内では政治の主導権を握るための政争が幕を開ける。 青年トルコ人革命を主導したのは統一派で、彼らは立憲政治の復活とアブデュルハミト体制の打倒を目指す「青年トルコ人」と呼ばれる知識人階層に属する集団であったが、一方青年トルコ人には統一派とは別の勢力が存在していた。彼らは強力な中央政府によるオスマン帝国の統一を志向する「統一派」に対し、各民族の自治を重視した連邦制を目指したために「分権派」と呼称された。 更に彼ら青年トルコ人勢力とは別に、アブデュルハミト体制以前の政治の主役であった大宰相府に務める政治家たち(青年トルコ人たちよりも上の世代で、かつて憲政成立に貢献した新オスマン人の流れを汲む)や、3月31日事件を鎮圧したことで影響力を持つようになったマフムト・シェヴケット・パシャら陸軍の高官たち、自治や権利向上を求める国内の諸民族などの勢力も存在し、第二次立憲政は混沌を極めていた。 こうした諸集団の中でまず与党の座についたのは統一派で、彼らは1908年の普通選挙以来与党の地位にあった。当初は自由主義的な集団と目された統一派であったが反革命クーデターの発生やオーストリアによるボスニア・ヘルツェゴビナ併合などの事件を経てからは強権的な施策での国家統制へと舵を切り、1909年に集会や出版、ストライキや結社に関する規制法案を制定し、更にはアブデュルハミト時代までは兵役を免除されていた非ムスリムを徴兵の対象に含めるなどの強権政治を行うようになっていった。統一派はさらに「民族」の名を冠した組織の結成を禁止する法案で帝国内の諸民族の民族運動の抑制を図り、こうした強権政治は国内から多くの反発を集めた。 統一派に対する不満は1910年3月から始まったアルバニア人の反乱となって現れ、統一派にも多くのメンバーを輩出していたアルバニア人の反乱は統一派に大きな衝撃を与えた。更にアルバニアでの反乱につけこんでイタリアがオスマン帝国領の北アフリカを目的に1911年9月に伊土戦争を起こすと、統一派はますますの苦境へと追い込まれる。 1911年11月になると統一派の統治能力に疑問を抱いた分権派を中心に、統一派に反対する総ての勢力が集合した野党「自由連合党」が結成され、12月のイスタンブルでの補欠選挙で統一派に勝利した。政権を失うことを恐れた統一派は1912年1月に解散総選挙を決行し、票操作までも行ったという不正選挙「棍棒選挙」で政権維持を企んだが、これは統一派に協力していた高級官僚や軍人たちの信用を失い、更には1912年5月の分権派の青年将校たちによる反統一派武装勢力「救国将校団」の結成を招いた。 国内の反対が激しくなったことを受けて親統一派であった大宰相メフメト・サイ―ト・パシャが辞任するといよいよ統一派は政権を維持することが出来なくなり、1912年7月に統一派は野党へと転落する。この統一派の失権を分権派たちは青年トルコ人革命に続く「第二の革命」として喜んだが、統一派政権の後に結成されたアフメト・ムフタル・パシャ内閣はその閣僚に一切の青年トルコ人を含まない、大宰相府の高級官僚たち主導の内閣で、統一派の追放に尽力した分権派たちは漁夫の利で政権を奪われた形になった。一方統一派は本部があるサロニカでの再起を目論んだが、新政権は統一派の蜂起を防ぐためにサロニカに戒厳令を敷き、統一派の半公式機関紙『タニン』を発禁処分とした。こうして統一派はバルカン戦争が起こる1912年9月までに政府によって完全に追い込まれてしまったのである。
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