オスマン帝国属領時代(1550年-1830年)
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「アルジェリアの歴史」の記事における「オスマン帝国属領時代(1550年-1830年)」の解説
1574年からオスマン帝国は北アフリカのアルジェリア、チュニジア、リビアに別々のパシャを送り込み当地を支配した。この時期に、オスマン帝国の支配の下でマグリブ諸国の境界がほぼ確立し、アルジェリアでも現在の領域が確立した。 オスマン帝国の治下ではオスマン帝国軍の実力に依拠したトルコ系の軍人による寡頭支配体制が築かれた。1671年にアルジェのデイはパシャから権力を奪い、オスマン帝国から自立的な立場を取ったが、チュニスのフサイン朝やトリポリのカラマンリー朝のようなトルコ系軍人による世襲の王朝は誕生しなかった。他の自立王朝と同様にアルジェリアもオスマン帝国時代を通してイスタンブールの帝国政府に貢納を続けた。また、ヨーロッパ船に対する海賊行為が行われ、海賊行為により多数のヨーロッパ人が奴隷化された。アルジェのデイを支えていた海賊行為に対して18世紀までヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国は貢納と引き換えに安全を買うことを選んだが、19世紀に入ると強攻策を採るようになり。1816年には第二次バーバリ戦争にて、イギリスとオランダがアルジェ砲撃を行った。
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オスマン帝国属領時代(1574年-1705年)
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「チュニジアの歴史」の記事における「オスマン帝国属領時代(1574年-1705年)」の解説
詳細は「ムラード朝(英語版)」を参照 1574年にハフス朝は滅亡し、チュニジアはオスマン帝国の属領となった。当初オスマン帝国は「デイ」(パシャ)と呼ばれる軍司令官をチュニジアに派遣したが、オスマン帝国の弱体化が進む中で、「ベイ」を名乗るトルコ系の軍人たちはパシャから権力を奪取し、イスタンブールのオスマン政府から独立した統治を行うようになった。ベイの地位は世襲化され、1613年にムラード朝(英語版)が成立した。 こうして成立した王朝はオスマン帝国に貢納を支払い、形式的にオスマン帝国のスルタンにベイの称号を受けた。この時期にほぼ現在のチュニジアの領域が確立した。内政面ではトルコ系の軍人が重用され、土着民は政治から遠ざけられた。17世紀初頭にスペインでモリスコの追放が進んだため、チュニスは多くのモリスコを受け入れ、8万人以上のモリスコがチュニスに居住するようになった 。マグリブではマーリク派が優越していたが、オスマン帝国の公式法学はハナフィー派だったため、ハナフィー派のモスクの建設が進んだ。外交面ではチュニスはオスマン帝国から実質的に独立していた 。さらにこの時代にチュニスはアルジェと共に北アフリカのバルバリア海賊の大拠点となり、ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国はフサイン朝が衰退する19世紀半ばまで、自国の船舶の安全を確保するためにチュニスのベイに貢納を行った。
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