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リビアの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/08/27 10:51 UTC 版)

リビアの歴史(リビアのれきし アラビア語:تاريخ ليبيا)では、リビアに相当する地域の歴史について述べる。

リビアの歴史

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リビアの先史時代英語版

リビア ポータル

先史時代

先史時代、ベルベル人が居住していた。

古代地中海世界

古代リビュア

レプティス・マグナの市場跡

地中海沿岸部にギリシャ人フェニキア人入植が始まり、ベルベル人は内陸部へ追いやられた一方でキュレネトリポリといった植民都市が築かれた。キュレネは後に東方のプトレマイオス朝によって支配された。またトリポリはポエニ戦争によってカルタゴを滅ぼした共和政ローマの支配下に入り、アフリカ属州に組み込まれた。そしてプトレマイオス朝の衰退により、紀元前76年にキュレネもローマ属州キレナイカに組み込まれ、リビア全土はローマ帝国領となった。

ローマ帝国

ローマ帝国の統治下レプティス・マグナなどローマ人の植民市が築かれた。193年にはレプティス・マグナ出身のセプティミウス・セウェルスローマ皇帝となり、セウェルス朝を築いた。396年にローマ帝国が東西に分裂すると、リビアは東ローマ帝国の支配を受けた。ローマ時代にはキリスト教の布教が行われた。

リビアのイスラム化

7世紀アラブ人ウマイヤ朝に征服され、イスラム教が広がった。イスラム教の浸透とともに住民のアラブ化が進んだ。その後アッバース朝カイラワーンアグラブ朝ファーティマ朝チュニスハフス朝の支配を受けた。

しかしこのころからヨーロッパのキリスト教勢力とイスラム勢力との地中海を巡る覇権抗争が激化する。レコンキスタを完了し、イベリア半島からイスラム勢力を駆逐したスペインはさらに北アフリカへ攻勢を続行する。1510年にはペドロ・ナバーラ英語版将軍率いる部隊がトリポリを占領した。1517年マムルーク朝を滅ぼしてエジプトを征服したオスマン帝国も東からリビアに勢力を伸ばし、同年にはキレナイカを攻略した。スペインのアラゴン王フェルナンド2世は1528年にマルタ島聖ヨハネ騎士団にトリポリを与えたが、ヨハネ騎士団は財政的に孤立し、オスマン帝国の攻勢を凌ぐことができず、1551年にオスマン帝国海軍スィナン・パシャ英語版提督はトリポリを占領し、リビアはオスマン帝国領となった。

オスマン帝国属領時代

オスマン帝国統治下のリビアでは「ベイレルベイ」、またはパシャと呼ばれる州総督をトリポリに派遣し「ベイ」を名乗るトルコ系の地元豪族たちを通じて間接的に支配したが、オスマン帝国が衰退期に入るとパシャの権力も弱体化し、ベイたちはイスタンブールのオスマン政府から独立した統治を行うようになった。

カラマンリー朝

1711年、トリポリ総督のトルコ系軍人アフマド・カラマンリーが自立し、カラマンリー朝が成立した。1722年にオスマン帝国のアフメト3世はやむなくカラマンリーをパシャとして任命し、カラマンリー朝はオスマン帝国に貢納を支払い、オスマン帝国のスルタンよりベイの称号を受けるという形式的な属国として存続を許されることになった。

カラマンリー朝はチュニスアルジェの支配者と同様に、地中海で海賊活動を行ったが、このことはヨーロッパ諸国との軋轢を生み、19世紀初頭の1801年から1805年まで繰り広げられたアメリカ合衆国との第一次バーバリ戦争に繋がった。一方で1811年にはフェザーンを征服し、カネム・ボルヌ帝国との交易を盛んに行い、衰退していたサハラ交易を復活させた。しかし1830年フランスによるアルジェリア侵攻をきっかけにイギリスとフランスによる北アフリカへの進出が始まり、オスマン帝国内でこれに対抗すべくリビア再征服の機運が生まれた。1835年オスマン帝国軍ターヒル・パシャトルコ語版がリビアに侵攻し、カラマンリー朝は滅亡。オスマン帝国は再びパシャをリビアに送り込み、直接統治下に置いた。

オスマン帝国からイタリアへ

伊土戦争

伊土戦争中、リビアを爆撃するイタリア軍飛行船

オスマン帝国の再支配下では部族の自治が認められると共に、1837年に創立されたイスラーム復古主義的なサヌーシー教団が勢力を増した。しかし1908年青年トルコ革命後、オスマン政府は方針を一変させサヌーシー教団は弾圧の対象となった。リビアを繋ぎ止めようとするオスマン帝国の努力の裏で、1861年にリソルジメントを達成したサヴォイア朝イタリア王国がこの地への進出を狙い始める。

イタリア軍に抵抗を続けたサヌーシー教団の指導者、オマール・ムフタール

1911年、列強の植民地獲得競争に遅れをとっていたイタリアはリビア侵略を目論み、オスマン帝国に宣戦布告、伊土戦争が勃発した。イタリア軍は海上兵力の優位を生かして沿岸部の諸都市を征服し、エンヴェル・パシャムスタファ・ケマル(後のケマル・アタテュルク)に率いられたオスマン軍とサヌーシー教団に率いられた民兵は内陸部に逃れた。戦争はオスマン帝国の敗北に終わり、1912年にローザンヌ条約が結ばれた。条約に基づいてオスマン軍の撤退が決定し、イタリアはオスマン帝国からトリポリタニアキレナイカを獲得した。

イタリア植民地時代(1911 - 1934)

伊土戦争敗北によりイタリアの植民地となったリビアでは地中海沿岸部にイタリア人が入植したが、フェザーンとキレナイカではサヌーシー教団指導者オマール・ムフタールが、トリポリタニアではベルベル人の指導者スレイマン・バルーニー英語版がそれぞれ激しい抵抗を繰り広げていた。1915年にはイタリアが第一次世界大戦の勃発で軍主力を欧州に集中させた隙をつき、抵抗軍がリビアを奪還した。1918年11月18日にはアブデルラフマン・アッザーム英語版によってトリポリタニア共和国の成立が宣言されたが、大戦終結と共にイタリア軍は直ちに軍主力をリビアに戻し、短期間でこの共和国は滅ぼされた。その後もオマール・ムフタールはキレナイカとトリポリタニアの統合を打ち出しながらフェザーンで抵抗を続けたが、1931年に捕えられて処刑。彼の敢闘によりイタリアによるリビアの完全平定は実に1932年にまでもつれこんだ。平定後、三地域はイタリア領リビアとなった。

イタリア植民地時代(1934 - 1943)

第二次世界大戦中には、 連合国イギリス)と枢軸国(イタリア、ナチス・ドイツ)の間で激戦が繰り広げられ、北アフリカ戦線ではドイツ軍の将軍エルヴィン・ロンメルイギリス軍の将軍バーナード・モントゴメリーらが戦闘を繰り広げ、枢軸軍はリビアからエジプトに進出し、一時はアレクサンドリアに迫ったが、エル・アラメインの戦いで敗退すると、同戦線での連合軍の優勢が確定した。

連合軍による占領下のリビア(1943 - 1951)

枢軸軍の敗北により、キレナイカとトリポリタニアはイギリスの、フェザーンはフランスの統治下に置かれ、リビアは両国の共同統治領となった。戦後イタリア共和国政府はリビアの返還を要求したが、三国によるリビアの処理は複雑を極めたために、新たに成立した国際連合にリビア問題の処理が任された。1949年に旧イタリア領リビアの独立が国連によって決議された。

王政時代

イドリース1世

1951年に憲法が制定され、リビアは、三地域の対立によりキレナイカトリポリタニアフェッザーンの三州による連邦制を認めたリビア連合王国として独立した。連合王国の国王にはキレナイカの首長であり、サヌーシー教団の指導者だったイドリース1世が即位した。キレナイカ出身の首長が国王となったため、連合王国はトリポリとベンガジの二都を首都にした。独立時の人口は約100万人ほどだった[1]

独立後、イドリース1世は親欧米政策を採り、1955年から国際石油資本によって石油開発が進められた。1963年連邦制は廃止され、リビア王国が成立した。それまでの貧しい農業国から産油国となったリビアには石油輸出によって貿易収支が改善し、莫大な外貨が流れ込んだ。しかし、石油収入の流入による社会の急激な変化や、高まる汎アラブ主義の波に王政は対応できず、石油収入も大多数の国民には還元されなかった。そのため、徐々に国民の不満は蓄積されていった。

カッザーフィー政権

アフリカ連合のサミットに出席するカッザーフィー(2009)

1969年9月1日ナセル主義者だった27歳のムアンマル・アル=カッザーフィー(カダフィ)大尉と同志の青年将校たちによるクーデターにより、トルコに滞在中だったイドリース1世が退位し、カッザーフィーを事実上の元首とするリビア・アラブ共和国が成立した。

その後はイスラム原理主義社会主義やナセル主義やカッザーフィーが著した『緑の書』に基づき国家を建設していったが、1970年代から1990年代までパンアメリカン航空103便爆破事件(1988年)など、数々のテロ支援などでアメリカ合衆国イギリスなどの欧米諸国と敵対した。このような姿勢からリビアはアメリカ合衆国によってテロ支援国家に指定され、1986年にはアメリカ空軍によりカッザーフィー暗殺のための空爆が行われた。

周辺諸国との関係でも、1974年1月にはチュニジアと共同で合邦を宣言し、アラブ・イスラム共和国(チュニジア・リビア連合)の成立を宣言したが、この連合は即座に消滅した。この後チュニジアとの関係は悪化し、1980年1月27日にチュニジアのガフサで40人以上の死者を出したガフサ事件 (1980年)フランス語版はリビアが黒幕だったといわれている。1985年にはチュニジア国境に軍隊を集結し、チュニジアを威嚇した。

1973年にはウラン鉱脈のあるチャドとの国境、アオゾウ地帯を占拠。 1978年1月、チャドのハブレ派にリビア軍の援軍を与えて、チャド北部を制圧する(チャド・リビア紛争)。 1980年にはチャドの旧FROLINATによる新連立政権(ハブレ派を含む)と国境紛争を行い、多大な損害を受け、1981年11月に撤退した。1987年、国境を巡ってチャドとトヨタ戦争英語: Toyota War)が勃発。

このような好戦的な外交姿勢や、相次ぐ政府主導のテロにより、1992年にリビアは国連によって経済制裁を受け、1999年に経済制裁が解除されるまで経済の衰退が進んだ。

しかし、2003年のイラク戦争のころからリビアの姿勢は軟化し、これを受けてアメリカ合衆国はリビアをテロ支援国家指定から解除した。2006年5月15日にアメリカ合衆国はリビアとの国交正常化を発表した。

2002年にはアフリカ連合(AU)の原加盟国となり、カッザーフィーは汎アフリカ主義アフリカ合衆国構想を主導した。

2004年に国名を大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国とした。

2011年2月、カッザーフィーの辞職を求める大規模な反政府デモが発生し、政府軍が反体制派を空爆するなどリビアは事実上の内戦に突入。米英仏を中心とする欧米諸国はリビアへの軍事介入を行い、7月にはリビア連絡調整グループが反カッザーフィー勢力であるリビア国民評議会をリビアにおける正統な政府として承認。8月23日に首都トリポリが陥落、10月20日にシルトでカッザーフィーが射殺され、政権は終焉した。

統一政府樹立の試み

国民評議会(暫定政権)

カッザーフィー政権が倒れた後、国民評議会を中心とした新政権移行が行われた。2012年7月7日には60年ぶりの民主選挙となる国民議会選挙(定数200)が執行され、120議席が無所属に、80議席が政党に配分され、そのうち国民勢力連合が39議席、ムスリム同胞団系の公正建設党が17議席、残りの議席は各中小政党が獲得した。国民評議会は同年8月8日に権限を国民議会に移譲して解散し、これ以降は選挙によって選ばれた議員で構成された国民議会が制憲議会として新憲法を制定し、1年以内の正式政府発足を目指すこととなった[2]

二重政府状態

しかし2014年に入り、リビア各地でイスラム系武装勢力の攻勢が活発化し、政府による統治が弱まっていった(2014年リビア内戦)。国民議会は新たに作られる代議院へ移行するため6月25日に議会選挙英語版が執行され、その結果世俗派が圧勝し、結果を不服とするイスラム勢力が攻勢をかけることとなった[3]。一連の戦闘の結果、代議員は首都トリポリにおける実効支配権を喪失し、東部の港湾都市トブルクに退去した[4]。一方新たに首都を掌握したイスラム勢力は旧来の国民議会を復活させ(新・国民議会)[3]、対抗政府として国民救済政府英語版(NSG、National Salvation Government)を樹立した[5]

こうしてリビア国内はトブルクを拠点とする世俗派主導の代議院と、トリポリを拠点とするイスラム勢力系の新国民議会の2つの議会が存在し、それぞれが政府を選出し、正当性を争う事態となった[6]。国際社会からはトブルク政府が正当性を認められたのに対し、トリポリ政府のNSGはトルコカタールの支援を受けていると指摘された[6]。また東部のキレナイカ地方は独自の自治政府・キレナイカ暫定評議会英語版(CCL)により統治され、中央政府の統治が及ばなかった[7]。さらにはISILアルカイダなどのイスラーム過激派が勢力を伸張させたことから各地で内戦が激化し、事実上の無政府状態となった[8]

国民合意政府、国民統一政府

双方が交渉を行った結果、2015年12月17日に政治協定が締結され、暫定の統一政府として国民合意政府英語版(GNA、Government of National Accord)が樹立され、国家元首機能を持つ会議体として大統領評議会英語版が設置され、ファイズ・サラージ(シラージュ)が議長に就任した[9][10]。しかし国民合意政府は両議会をはじめ各勢力の支持をすんなり得られたわけではなく、統一政権の発足は足踏み状態が続いた[11][12]。2016年3月31日になって新国民議会は大統領評議会に権限を移譲した[13]。しかし新国民議会も一枚岩ではなく、ハリーファ・アル=グワイル英語版をトップとする国民議会派が10月14日にクーデター未遂英語版を引き起こし、NSGの復活を宣言したこともあったが[14]、最終的には2017年3月16日にトリポリより兵を引くことで大統領評議会側と合意した[15]

二大勢力のもう片方の代議院は国民合意政府をすぐには承認しなかった[16]。代議院が軍の司令官に任命した、東部のベンガジなどを支配するハリファ・ハフタル将軍傘下のリビア国民軍(LNA)が2019年4月に国民合意政府が拠点とするトリポリに向けて進撃[17][18]。結局、LNAは撤退を余儀なくされたものの、こうした混乱はリビアを経由した中東・アフリカ各地から欧州への難民流出の背景にもなった[19]。国民合意政府とLNAによる内戦は泥沼化したが[20]、8月21日になって暫定政権とLNAが停戦で合意し、近いうちに選挙を実施すると発表した[21]。2021年2月、次期大統領評議会の議長を決める選挙は決着しないまま新たな国民統一政府(GNU、 Government of National Unity)を担う議長にムハンマド・アル=メンフィを、首相にアブドゥルハミード・ドベイバ英語版を選出し、代議院は3月10日に国民統一政府を承認[22]。国民合意政府も国民統一政府への引き継ぎを承認し[23]、3月15日に国民統一政府が発足した[24]

再びの二重政府状態

しかし代議院は国民統一政府のドベイバ首相に対する不信感を募らせていき、2021年9月にはドベイバ政権に対する信任を撤回[25]。ドベイバが12月24日に予定していた大統領選挙を実施できなかったことで国民統一政府の分裂は決定的となり、代議院は2022年3月1日にファトヒー・バーシュアガー英語版元内務大臣を首班とする独自の国民安定政府英語版(GNS、Government of National Stability)を樹立[26][27]。ドベイバは政権移譲を認めず、リビアは再び二重政府に陥った[28]。代議院は2024年8月13日にドベイバ政権の任期終了を確認し、バーシュアガーの後継にオサマ・ハマド英語版を選出し、新たな統一政府が選出されるまではハマドを首班とする国民安定政府を正統とみなす決定を下した[29]

2026年現在、リビアは国際連合が承認し大統領評議会が支持する国民統一政府、代議院が支持する国民安定政府に加え、2015年12月の政治協定で樹立された国家最高評議会英語版が統治を巡って対立し分裂状態にある。しかし6月18日には三者が2027年2月17日までに大統領選挙と議会選挙を同時に実施することで合意している[30]

脚註

注釈

出典

  1. 宮治一雄『世界現代史17 アフリカ現代史V』山川出版社、2000年4月 p.140
  2. “リビア暫定統治機構の国民評議会が解散へ、国民議会に権限移譲”. 朝日新聞. 2012年8月9日. 2014年2月23日時点のオリジナルよりアーカイブ. 2026年6月27日閲覧.
  3. 1 2 毎日新聞』2014年9月21日付け東京朝刊7頁「リビア:カダフィ政権崩壊3年 再び内戦危機 二つの『政府』、首都治安悪化」
  4. 『毎日新聞』2014年8月6日付け東京朝刊6頁「リビア:首都で議会開けず 武力衝突影響、異例の事態」
  5. 柿﨑正樹 (2020年9月18日). 転換期を迎えたトルコの対アフリカ外交 —ソマリア、スーダン、リビアの事例から”. 日本国際問題研究所. 2026年8月27日閲覧。
  6. 1 2 “リビア・トブルク政府、トルコを非難”. ヒュッリイェト. 2015年2月28日. 2015年4月4日時点のオリジナルよりアーカイブ. 2026年6月23日閲覧.
  7. 『毎日新聞』「リビア:東部『自治』宣言 民兵組織など数千人が集会」2012年3月8日付け東京朝刊8頁
  8. “イスラム国が狙う無政府状態のリビア”. 日本ビジネスプレス. 2014年12月17日. 2015年2月17日閲覧.
  9. “リビア統一政府の暫定首相がトリポリ到着 反対勢力の抵抗続く”. BBC. 2016年3月31日. 2016年4月18日閲覧.
  10. “Libya MPs postpone vote on new unity government” (英語). アル=アラビーヤ. 2016年2月16日. 2016年3月5日閲覧.
  11. “リビア統一政府の暫定首相がトリポリ到着 反対勢力の抵抗続く”. BBC. 2016年3月31日. 2026年6月27日閲覧.
  12. “Libya MPs postpone vote on new unity government”. アル=アラビーヤ. 2016年2月16日. 2026年6月27日閲覧.
  13. “Tripoli’s National Salvation Government quits”. Libyan Express. 2016年4月5日. 2016年4月18日閲覧.
  14. “『中東かわら版』No.110 リビア:トリポリでグワイル首相ら国民議会派がクーデタ”. 公益財団法人中東調査会. 2016年10月18日. 2016年10月21日閲覧.
  15. “Ceasefire reached in Tripoli after three days of bloody fighting”. Libyan Express. 2017年3月16日. 2020年9月18日閲覧.
  16. “リビア統一政府に権限移譲 トリポリ掌握勢力”. BBC. 2016年4月6日. 2016年4月18日閲覧.
  17. “Libya's Haftar appointed army chief for recognized government”. ロイター. 2015年3月2日. 2026年6月23日閲覧.
  18. 首都に進軍/政権側と衝突 戦闘拡大の恐れ」読売新聞』朝刊2019年4月8日(国際面)2019年4月9日閲覧。
  19. 首都接近/東西対立 内戦再開の懸念」毎日新聞』朝刊2019年4月7日(国際面)2019年4月9日閲覧。
  20. “リビア、停戦協議を再開 国連「建設的」”. 時事通信. 2020年6月11日. 2020年9月18日閲覧.
  21. “リビア停戦合意、和平への「困難な道」の第一歩”. フランス通信社. 2020年8月26日. 2020年9月18日閲覧.
  22. “リビア議会、統一政府を信任 12月の選挙管理担う”. 日本経済新聞. 2021年3月11日. 2021年3月12日閲覧.
  23. “暫定統一内閣承認 各国、共同声明で歓迎―リビア”. 時事通信社. 2021年3月11日. 2021年3月12日閲覧.
  24. ‘One and united’: Libya interim government sworn in”. アルジャジーラ. 2021年3月15日. 2021年3月16日閲覧.
  25. Libya's parliament passes no-confidence vote in unity government (2021年9月21日). 2026年6月23日閲覧。
  26. “Libya's Haftar appointed army chief for recognized government”. ロイター. 2015年3月2日. 2026年6月23日閲覧.
  27. リビア:東部の議会が新政府を承認、再び「1国2政府」へ”. 公益財団法人中東調査会 (2022年3月8日). 2026年6月19日閲覧。
  28. “リビア議会が首相選挙の日程を決定”. Arab News. 2022年1月31日. 2024年8月17日閲覧.
  29. “Libyan parliament ends term of Tripoli-based government amid political rift”. アナドル通信社. 2024年8月14日. 2026年6月23日閲覧.
  30. “Libya's main governing bodies agree to hold elections”. アルアハラム. 2026年6月18日. 2026年6月23日閲覧.

参考文献

関連項目

外部リンク




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