カネム・ボルヌ帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/10 09:01 UTC 版)
- カネム・ボルヌ帝国
- Royaume du Kanem-Bornou
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700年頃 - 1893年 →
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(カネム帝国の国旗) (ボルヌ帝国の国旗) -
最盛期のカネム・ボルヌ帝国の版図 -
公用語 カヌリ語、テダ語 宗教 アニミズム
イスラム教スンナ派首都 ンジミ
ンガザーガム通貨 物々交換、奴隷、象牙 現在 チャド
ニジェール
リビア
ナイジェリア
カメルーン
マリ

カネム=ボルヌ帝国(カネム・ボルヌていこく、フランス語: Royaume du Kanem-Bornou)は、アフリカ内陸部スーダン地域の中央で700年頃から1376年に後のチャド及びリビア南部一帯を支配したカネム帝国及び1396年から1893年に後のニジェール東部一帯を支配したボルヌ帝国を併せて呼ぶ場合の呼称。
歴史
カネム帝国
カネム帝国は、テダ語及びダザガ語を話すトゥーブゥー系が移民したザガワ語を話すザガワ人が起源であり、彼らは乾燥と圧迫を逃れサブサハラと中東の交易路に面したチャド湖北東部へたどり着いた。彼らの年代記『ディワン』ではドゥグワと書かれたザガワ人がそこに着いた時には、防壁に守られた洗練されつつも分散した都市国家(en:Sao civilisation)を形成したサオ族(Sao)と呼ばれる先住民が既にいた。ザガワ人は、彼らの習慣の多くを採り入れ、度々交戦しつつ最終的に16世紀後半までにサオ族を支配した。
カネム帝国はトリポリとのサハラ交易の交易路の南端に当たり、ザガワ人は記録上の初代王(マイ)セフ(Sef)として知られるサイフの下で遊牧民の生活を捨て、西暦700年頃に首都ンジミを建設した。ドゥグワの王たちは神聖な王として扱われ、マグミとして知られる権威を形成した。王朝の交替に拘らず、マグミとマイの称号は以後1,000年間以上用いられるようになった。
セフワ朝
セフワ朝はチャド湖周辺の首長国の連合から成立した。王朝は、イエメン人の英雄という伝承のあるセイフ=ビン=ディ=ヤザンの系譜をひく人物を名乗るフマイ(Hummay, 1075年頃 - 1086年頃)によって建国された。そのため、セイフ=ビン=ディ=ヤザンにちなんで王朝の名をセフワ朝とした。実は、ベルベル人の改宗者が王朝をひらくときは、しばしば、イエメンの血統を名乗ったこと、アル・イドリーシーの記録からもフマイの実際の血筋はベルベル人であった可能性が濃厚である。
カヌリ族が1100年代からカネム帝国の領域に移住し、13世紀には周辺領域を征服するようになっていた。ドゥナマ・ダッバレミの時代(1221年 - 1259年)に、彼はカヌリ王で最初のムスリムへの改宗者となり、ジハードを宣言し周囲の民族を支配し征服による拡張期をつくった。この時期にハウサ諸王国が形成され始めた。
ボルヌ帝国
その後、近隣勢力の圧迫により、1376年チャド湖西南岸のボルヌ地方に遷都。16世紀、イドリス・アローマの即位とともに最盛期を迎え、カネム地方を回復[1]。サハラ中央部の覇者となった。
ウスマン・ダン・フォディオ率いるフラニ人勢力によるフラニ戦争(1804年 – 1808年)で、支配下のハウサ諸王国が攻められたことによってカネム・ボルヌ帝国の勢力が衰退し、代わってソコト帝国が台頭した。
1893年にスーダンから進入したラビーフ・アッ=ズバイルに攻められ、ボルヌ帝国は滅亡した。1900年、チャド湖南東のバギルミ王国(現シャリ=バギルミ州)とフランス軍の連合軍がクッスリの戦いでラビーフ・アッ=ズバイルを破った。
経済・社会
カネム・ボルヌ帝国の主要交易品は奴隷と象牙であり、なかでも奴隷は帝国の南および東に存在するワダイ王国やコトコ王国、バギルミ王国といった属国からの貢納や、ロゴーヌ川中流域の小国家群への奴隷狩りによって入手していた[2]。
脚注
- ^ 「チャド盆地の地域史と農牧業」p239 石山俊(「朝倉世界地理講座 アフリカⅠ」初版所収)、2007年4月10日 朝倉書店
- ^ 「チャド盆地の地域史と農牧業」p239-241 石山俊(「朝倉世界地理講座 アフリカⅠ」初版所収)、2007年4月10日 朝倉書店
関連項目
- ボルノ首長国
- ボルノ州
カネム・ボルヌ帝国
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詳細は「カネム・ボルヌ帝国」および「セフワ朝(英語版)」を参照 9世紀前半、チャド湖の近くにカネム王国が興った。カネム王国は、12世紀から13世紀にはイスラム教に改宗した。まず、13世紀前半に王位にあったマイ・ドゥナマ・ディバレミの治世下で版図が最大になった。帝国の基盤は交易にあった。交易路は文字通り東西南北に延び、サハラ交易路を押さえ、トリポリ、エジプトにまで達した。13世紀にはカネムのいわば「朝貢国」だったボルヌ王国が勢力を伸ばし、カネム王国は衰退した。16世紀にはボルヌ帝国のスルタン、イドリス・アローマがカネムを占領、支配下に置いた。帝国自体はそのまま継続し、西隣のソンガイ帝国の朝貢国となった。アローマは版図を大きく地中海近くまで北に広げた。オスマン帝国との関係を重視し、馬、金属、塩、銅を受け取り、コーラや黄金、象牙と交換した。ダルフール地方を経由して奴隷も輸出していた。この頃にサハラの交易は最も盛んになり、各オアシスを結ぶ網の目のような交易路が発達した。チャド湖西岸のヌガザルガムにはイスラム学の学校も設立され、名実ともに中央スーダンの盟主となった。
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