トヨタ戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/02 03:48 UTC 版)
![]() | この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2016年3月) |
![]() | この記事は英語版の対応するページを翻訳することにより充実させることができます。(2021年4月) 翻訳前に重要な指示を読むには右にある[表示]をクリックしてください。
|
トヨタ戦争 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
チャド・リビア紛争中 | |||||||
![]() | |||||||
| |||||||
衝突した勢力 | |||||||
![]() ![]() |
![]() ![]() | ||||||
指揮官 | |||||||
ムアンマル・アル=カッザーフィー | イッセン・ハブレ | ||||||
戦力 | |||||||
リビア軍 90,000 CDR 1,000 |
チャド軍 28,000 FAP 1,500~2,000 | ||||||
被害者数 | |||||||
戦死:7,500 捕虜:1,000 軍用車両:800 空軍機:28 | 戦死:1,000 |
トヨタ戦争(トヨタせんそう、The Great TOYOTA War)は、チャド・リビア紛争の後期の戦闘のことである。
戦争の名称
この戦争では、チャド軍と反政府勢力の両者が、トヨタ自動車のピックアップトラックを戦場で使用した。(主にランドクルーザー・ピックアップをテクニカルに改造したもの。)
その車両の荷台後部に大きく表示された「TOYOTA」のロゴタイプが報道によってたびたび放映され目立ったため、「トヨタ戦争」と呼ばれるようになった[1]。
学研の科学雑誌「UTAN」には、安易に軍用に転用される民生品を紛争地帯へ輸出することを批判する記事が掲載され、同時に各政党へのこの件に関するアンケートが行われた。なおチャド軍が使用していたトヨタ車は、当時チャド政府を支援していたフランスが供給したものである。
解説
1987年、北部チャド、リビアとの国境付近でチャド政府軍と反政府勢力、反政府勢力を支援するリビア軍の間で行われた。この戦争ではリビアは多くの損害を出し、7,500人が死亡、およそ15億ドルの兵器を損失した。
チャド内戦は1983年に、リビアの最高指導者カダフィがチャドのイッセン・ハブレ大統領を認めずにチャドの反政府暫定国民政府(GUNT)に軍事協力したことから始まっている。リビアのこの行為はフランスの介入を招き、マンタ計画、エペルヴィア計画によってリビア軍の軍事行動は16度線の北部、人口の少ない砂漠地帯に限られるようになった。
1986年に入ると、チャドの重要拠点を失ったGUNTはカダフィに反旗を翻した。これを知ったハブレ大統領は、チャド北部を奪回し、リビアのチベスチ近辺で戦っているGUNT離脱者と合流するために、12月16日から軍を16度線を越えて進軍させた。政府軍は、3か月に渡ってゲリラ戦と正規戦を駆使して北部チャドを奪回した。また、1987年9月に停戦条約に合意するまでの間リビア軍と戦闘を続け、大きな被害を与えた。停戦条約ではアオゾウ地帯の帰属について話し合われ、1994年、国際司法裁判所はこの地域をチャド領と裁定した。
トヨタ自動車ではテロリストが利用するのを防ぐため2021年から、ランドクルーザー(2021年式・300系)の販売時に、「登録後1年以内はオークションへ出品しない」「不適切な輸出につながる可能性がある場合、取引を解消する」「海外に輸出しない」旨の誓約書の記名と提出を購入の条件に加えるようになった[2][3]。
関連項目
- 第5次ヴァル・ファジュル作戦 - 日本の民生品(例としてコマツの建設機械)がそのまま使われた例
- ISIL - トヨタ製のピックアップトラックを多用して巡回している。また凱旋する映像でもトヨタ製のピックアップが頻繁にみられる。
- カシオF91W - 中東でテロ組織が製作する爆弾にチープカシオの腕時計が標準的に組み込まれていた
脚注
- ^ ラビ・ソマイヤ (2010年11月19日). “世界の武装ゲリラがトヨタを愛する理由” (日本語). ニューズウィーク日本版 2017年5月14日閲覧。
- ^ “やはり転売車続々…1700万円のトヨタ新型「ランクル」 なぜ「転売禁止のお願い」は法律で規制出来ないのか”. くるまのニュース. 2022年11月16日閲覧。
- ^ “業者オークションに6台のランクル300が出品 「転売しません」の誓約書はもはや効力なし?”. 自動車情報誌「ベストカー」 (2022年5月21日). 2022年11月16日閲覧。
トヨタ戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 08:58 UTC 版)
詳細は「トヨタ戦争」および「:en:Toyota War」を参照 戦争の最後の年となった1987年の年頭、チャド駐留リビア軍は兵士8000人、戦車300両を維持し、いまだ威容を誇っていた。しかしながら、偵察任務や突撃歩兵といった従来より味方チャド勢力から提供されていた重要な支援を失っていた。その支援がないと、駐留リビア軍はチャドの砂漠に孤立する無防備な島の様であった。一方、チャド国軍(FANT)は大幅に強化され、士気の高い兵士10000人を擁し、ミラン対戦車ミサイルを装備し高速移動できる砂漠仕様のトヨタ製ピックアップトラックが配備されていた。この紛争の最終局面は、このトラックから「トヨタ戦争」と名付けられた。 1987年1月2日、ハブレは、防御の堅いリビア側のファダ通信基地への攻撃(ファダの戦い(英語版))を成功させ、チャド北部の支配権奪還に向けた活動を開始した。チャドの司令官ハサン・ジャモス(英語版)は、陣地を素早く挟み込み、包囲し、四方から急襲、撃破するといったリビア軍に対する一連の攻撃を指揮した。ジャモスはこの手法を3月のビルコラの戦い(英語版)、ワジ・ドーム(Ouadi Doum)の戦いでも繰り返し使用、リビア軍は壊滅的な損害を受け、チャド北部からの撤退を余儀なくされた。 次にリビアが支配するアオゾウ地帯が危うくなり、8月にはアオゾウ地帯はチャド国軍(FANT)の手に落ちたが、リビアの反撃は圧倒的で、またフランス軍が航空支援を拒否したこともあり、チャド国軍(FANT)は撃退されるに至った。ハブレはこの敗北に対し、チャド・リビア紛争初となるリビア領内への攻撃を行うことで即応、9月5日にはマアタン・アッ・サッラにあるリビアの主要空軍基地(英語版)を急襲し完全な勝利を収めた(マアタン・アッ・サッラの戦い(英語版))。この攻撃は、アオゾウ地帯への新たな攻撃の前に、リビアの航空戦力の脅威を取り除いておくといった計画の一環であった。 マアタン・アッ・サッラの戦いにおいて、チャド側としてフランスが介入し、アメリカがチャド国軍(FANT)に衛星情報などからなる地理空間情報インテリジェンス(英語版)(GEOINT)を提供したことから、カダフィは、リビアの敗北はフランスとアメリカによる「いわれのないリビア侵略」である、と非難した。 マアタン・アッ・サッラの戦いの大勝利を受けて、フランスはこの戦いがリビア本土への総攻撃の第一歩となることを恐れており、また本土総攻撃をフランスは許容しないと見込まれていたことから、予期されていたアオゾウ地帯への攻撃は行われなかった。一方、カダフィは国内外からの圧力にさらされ、軟化の兆しを見せており、9月11日のアフリカ統一機構(OAU)仲介による停戦につながった。
※この「トヨタ戦争」の解説は、「チャド・リビア紛争」の解説の一部です。
「トヨタ戦争」を含む「チャド・リビア紛争」の記事については、「チャド・リビア紛争」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- トヨタ戦争のページへのリンク