トヨタ戦争とは? わかりやすく解説

トヨタ戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/02 03:48 UTC 版)

チャド・リビア紛争 > トヨタ戦争
トヨタ戦争
チャド・リビア紛争中
1986年12月16日 - 1987年9月11日
場所チャド北部
結果 チャド軍の勝利、停戦。
衝突した勢力
リビア
CDR
チャド
FAP
指揮官
ムアンマル・アル=カッザーフィー イッセン・ハブレ
戦力
リビア軍 90,000
CDR 1,000
チャド軍 28,000
FAP 1,500~2,000
被害者数
戦死:7,500
捕虜:1,000
軍用車両:800
空軍機:28
戦死:1,000

トヨタ戦争(トヨタせんそう、The Great TOYOTA War)は、チャド・リビア紛争の後期の戦闘のことである。

戦争の名称

この戦争では、チャド軍と反政府勢力の両者が、トヨタ自動車ピックアップトラックを戦場で使用した。(主にランドクルーザー・ピックアップテクニカルに改造したもの。)

その車両の荷台後部に大きく表示された「TOYOTA」のロゴタイプ報道によってたびたび放映され目立ったため、「トヨタ戦争」と呼ばれるようになった[1]

学研科学雑誌UTAN」には、安易に軍用に転用される民生品を紛争地帯へ輸出することを批判する記事が掲載され、同時に各政党へのこの件に関するアンケートが行われた。なおチャド軍が使用していたトヨタ車は、当時チャド政府を支援していたフランスが供給したものである。

解説

1987年、北部チャドリビアとの国境付近でチャド政府軍と反政府勢力、反政府勢力を支援するリビア軍の間で行われた。この戦争ではリビアは多くの損害を出し、7,500人が死亡、およそ15億ドルの兵器を損失した。

チャド内戦は1983年に、リビアの最高指導者カダフィがチャドのイッセン・ハブレ大統領を認めずにチャドの反政府暫定国民政府(GUNT)に軍事協力したことから始まっている。リビアのこの行為はフランスの介入を招き、マンタ計画、エペルヴィア計画によってリビア軍の軍事行動は16度線の北部、人口の少ない砂漠地帯に限られるようになった。

1986年に入ると、チャドの重要拠点を失ったGUNTはカダフィに反旗を翻した。これを知ったハブレ大統領は、チャド北部を奪回し、リビアのチベスチ近辺で戦っているGUNT離脱者と合流するために、12月16日から軍を16度線を越えて進軍させた。政府軍は、3か月に渡ってゲリラ戦と正規戦を駆使して北部チャドを奪回した。また、1987年9月に停戦条約に合意するまでの間リビア軍と戦闘を続け、大きな被害を与えた。停戦条約ではアオゾウ地帯の帰属について話し合われ、1994年国際司法裁判所はこの地域をチャド領と裁定した。

トヨタ自動車ではテロリストが利用するのを防ぐため2021年から、ランドクルーザー(2021年式・300系)の販売時に、「登録後1年以内はオークションへ出品しない」「不適切な輸出につながる可能性がある場合、取引を解消する」「海外に輸出しない」旨の誓約書の記名と提出を購入の条件に加えるようになった[2][3]

関連項目

  • 第5次ヴァル・ファジュル作戦 - 日本の民生品(例としてコマツ建設機械)がそのまま使われた例
  • ISIL - トヨタ製のピックアップトラックを多用して巡回している。また凱旋する映像でもトヨタ製のピックアップが頻繁にみられる。
  • カシオF91W - 中東でテロ組織が製作する爆弾にチープカシオの腕時計が標準的に組み込まれていた

脚注

  1. ^ ラビ・ソマイヤ (2010年11月19日). “世界の武装ゲリラがトヨタを愛する理由” (日本語). ニューズウィーク日本版. http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2010/11/post-1817.php?page=2 2017年5月14日閲覧。 
  2. ^ やはり転売車続々…1700万円のトヨタ新型「ランクル」 なぜ「転売禁止のお願い」は法律で規制出来ないのか”. くるまのニュース. 2022年11月16日閲覧。
  3. ^ 業者オークションに6台のランクル300が出品 「転売しません」の誓約書はもはや効力なし?”. 自動車情報誌「ベストカー」 (2022年5月21日). 2022年11月16日閲覧。

トヨタ戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 08:58 UTC 版)

チャド・リビア紛争」の記事における「トヨタ戦争」の解説

詳細は「トヨタ戦争」および「:en:Toyota War」を参照 戦争最後の年となった1987年年頭チャド駐留リビア軍兵士8000人、戦車300両を維持し、いまだ威容誇っていた。しかしながら偵察任務突撃歩兵といった従来より味方チャド勢力から提供されていた重要な支援失っていた。その支援がないと、駐留リビア軍チャド砂漠孤立する無防備な島の様であった一方チャド国軍FANT)は大幅に強化され士気の高い兵士10000人を擁しミラン対戦車ミサイル装備し高速移動できる砂漠仕様トヨタ製ピックアップトラック配備されていた。この紛争最終局面は、このトラックから「トヨタ戦争」と名付けられた。 1987年1月2日ハブレは、防御堅いリビア側のファダ通信基地への攻撃ファダ戦い英語版))を成功させ、チャド北部支配権奪還向けた活動開始したチャド司令官ハサン・ジャモス(英語版)は、陣地素早く挟み込み包囲し四方から急襲撃破するといったリビア軍対す一連の攻撃指揮した。ジャモスはこの手法を3月のビルコラの戦い英語版)、ワジ・ドーム(Ouadi Doum)の戦いで繰り返し使用リビア軍壊滅的な損害を受け、チャド北部からの撤退余儀なくされた。 次にリビア支配するアオゾウ地帯危うくなり、8月にはアオゾウ地帯チャド国軍FANTの手落ちたが、リビア反撃圧倒的で、またフランス軍航空支援拒否したこともあり、チャド国軍FANT)は撃退される至ったハブレはこの敗北対しチャド・リビア紛争初となるリビア領内への攻撃を行うことで即応9月5日にはマアタン・アッ・サッラにあるリビアの主要空軍基地英語版)を急襲し完全な勝利を収めたマアタン・アッ・サッラ戦い英語版))。この攻撃は、アオゾウ地帯への新たな攻撃前にリビア航空戦力脅威取り除いておくといった計画一環であったマアタン・アッ・サッラ戦いにおいて、チャド側としてフランス介入しアメリカチャド国軍FANT)に衛星情報などからなる地理空間情報インテリジェンス英語版)(GEOINT)を提供したことから、カダフィは、リビア敗北フランスアメリカによる「いわれのないリビア侵略」である、と非難したマアタン・アッ・サッラ戦い大勝利受けてフランスはこの戦いリビア本土へ総攻撃第一歩となることを恐れており、また本土総攻撃フランス許容しない見込まれていたことから、予期されていたアオゾウ地帯への攻撃行われなかった。一方カダフィ国内外からの圧力さらされ軟化兆し見せており、9月11日アフリカ統一機構OAU仲介による停戦つながった

※この「トヨタ戦争」の解説は、「チャド・リビア紛争」の解説の一部です。
「トヨタ戦争」を含む「チャド・リビア紛争」の記事については、「チャド・リビア紛争」の概要を参照ください。

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