ハブレ政権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/11 19:11 UTC 版)
1981年11月にリビア軍がチャドから撤退し、カダフィのライバルでハブレを擁護するモブツ・セセ・セコのザイールのパラシュート部隊を先陣とするインター・アフリカ軍がアフリカ統一機構(OAU)の平和維持軍としてチャドに派遣された。1982年6月、ハブレが大統領に就任した。 ハブレ大統領は、反対派を残忍なやり方で粛清した。グクーニはOAUはハブレに加担してると批判し、リビアの後ろ盾を得て、ハブレ派と度々衝突した。1983年、リビア軍が侵入するとフランスとザイールが政府軍を支援して、リビア軍を押し戻した。1984年9月にフランスとリビアの間で休戦と互いの撤退の合意がなされた。フランスとザイールは1984年末までに撤退を終えたのに対して、リビアはチャド北部の占領を続けた。しかし1987年のトヨタ戦争(英語: Toyota War)によって、チャドはリビア勢力の排除に成功した。アフリカ統一機構の調停で、リビアとの休戦協定が成立した。そして1988年にはリビアとの間で、国交が回復した。なお、問題となっていたアオゾウ地帯は、外交による解決を図ることになり、1994年の国際司法裁判所の決定で、チャドに帰属権が認められた。
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