暫定国民連合政府(GUNT)の攻撃
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「チャド・リビア紛争」の記事における「暫定国民連合政府(GUNT)の攻撃」の解説
ンジャメナ陥落の数か月前にはカダフィはチャドからほぼ手を引いていたので、ハブレは、対話に応じそうなアシルと合意することを通じてでも、リビアの了解を得たいと考えていた。しかし、アシルは1982年7月19日に死去、跡を継いだアシェイク・イブン・ウマル(フランス語版)が指導者となった革命民主評議会(CDR)は、ハブレの国内統一の熱意、それに伴う革命民主評議会(CDR)支配地域への侵略、に反発し敵対することとなった。 こういった状況下、リビアの支援を受けて、グクーニは暫定国民連合政府(GUNT)を再結集・再編成し、1982年10月、ティベスティ地方のバルダイにおいて国民平和政府(National Peace Government)を創設、ラゴス協定の諸条項に合致した正当な政府であると主張した。差し迫る戦闘に備え、グクーニはいくつかの民兵組織から3000-4000人に上る兵士を集め、それは後に、チャド南部人ネグ・ジョゴ(英語版)指揮下の国民解放軍(Armée Nationale de Libération、ANL)に統合された。 カダフィがグクーニを全面的に支援する前に、ハブレはティベスティ地方において暫定国民連合政府(GUNT)軍を攻撃したが、1982年12月、1983年1月の2回の攻撃とも撃退された。その後、チャド北部で激しい戦闘が数か月続く一方、3月にはトリポリ・ンジャメナ相互訪問をはじめ、話し合いが持たれたが、交渉は失敗に終わった。3月17日、ハブレはこの紛争を国際連合に提起、リビアによるチャド領土への「侵略と占領」を検討するための安全保障理事会緊急会合の開催を要請した。 カダフィ側の攻撃準備が整い、6月には決定的な攻撃が始まった。精鋭兵3000人を擁する暫定国民連合政府(GUNT)軍が、チャド北部におけるハブレ政権側の拠点ファヤ・ラルジョーに攻め入り、6月25日にファヤ・ラルジョーは陥落。暫定国民連合政府(GUNT)軍は、コロ・トロ(英語版)、ウム・シャルバ(Oum Chalouba)、アベシェと急速に進軍、ンジャメナに向かう主要ルートの支配権を確保した。リビアは、暫定国民連合政府(GUNT)軍に対する兵士募集、訓練、重火器提供といった援助を行うも、正規部隊の投入は数千人に留まり、そのほとんどは砲兵部隊と後方支援部隊であった。これは、「この紛争はチャドの内政問題」としたいカダフィの願望によるものと考えられている。 国際社会、特にフランスとアメリカは、リビアが支援するこの攻撃に、否定的な反応を示した。ファヤ・ラルジョー陥落同日の6月25日に、フランスの外務大臣クロード・シェソンは、リビアのチャドに対する新たな関与について、「フランスは無関心のままではいられない」とリビアに警告し、7月11日にフランス政府は、反政府勢力に対するリビアの直接的な軍事支援を再度非難した。6月27日にはフランスの武器輸送・供与が再開、7月3日にはザイールのハブレ支援部隊第一陣250人が到着、また、同月、アメリカは1000万ドルの軍事・食料援助を発表した。さらに、アフリカ統一機構(OAU)は6月開催の会合でハブレ政権を正式に承認し、全ての他国軍にチャドから退去する様に求めており、カダフィはアフリカ統一機構(OAU)においても外交的後退を喫することとなった。 アメリカ、ザイール、フランスから支援を受けたハブレは、自身の軍隊を急速に再編、チャド国軍(英語: Chadian National Armed Forces)(FANT)と呼ばれる様になった。チャド国軍(FANT)は北へ進軍、暫定国民連合政府(GUNT)軍およびリビア軍とアベジェの南で遭遇、対峙した。ハブレはグクーニ率いる暫定国民連合政府(GUNT)軍を撃破、多方面で反攻を開始し、アベジェ、ビルティン、ファダ、そして7月30日にはファヤ・ラルジョーと矢継ぎ早に奪還、ティベスティ地方およびアオゾウ地帯をおびやかす情勢となった。
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