暫定協定案の放棄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 13:58 UTC 版)
11月25日午後、ハルは国務省の会議に参加していたが、列席していたハーバート・ファイス(国務省顧問)によれば、会議の最中にハルが何度も外部からの電話で呼び出され、電話の相手は誰かわからないが、電話の後にハルは暫定協定案に消極的な態度をとるようになったという(ファイスは電話の相手を「大統領であったかもしれないし、日本の軍部の行動の最近の情報提供者であったかもしれない」と推定している)。ただし、この会議では、ハルは暫定協定案の放棄を言明しなかった。 しかし、26日早朝になると、ハルはスティムソンに電話をして、「あの提案(暫定協定案)をすべてご破算にし、しかも、そのほかには提議することは何もないと通告する決意を固めた」と伝えている(これは後日、ハルがオランダ公使の質問に答えて、暫定協定案の放棄を決意したのは11月26日早朝だったと説明したことと符合する)。 この電話の直後、スティムソンはルーズベルトに電話をかけ、昨日の陸軍情報部の報告の写しを受け取ったかどうか尋ね、日本軍南下のニュースを伝えた。スティムソン日記によると、写しはルーズベルトのもとに届いておらず、「大統領はすっかり興奮し、烈火のごとく立腹した。…日本側は中国からの全面撤兵を含む全般休戦の交渉をしていながら、他方では、インドシナに向って遠征軍を送ろうとしていることは、日本が全然信用できない何よりの証拠であるから、いまや情勢はすっかり変ってしまった、と述べた」とある。 スティムソンは日本軍の動向について、日記にあるようなオーバーな言い方をしたのではないかと見られている。またルーズベルトの方も、以前から南方の日本軍に対する資材や兵員の輸送が行われていたことを承知していたはずで、今回の日本とヴィシー政府の協定に基づく「通常の行動」になぜ「烈火のごとく立腹した」のか不明である。 一方、ハルは26日午前、ルーズベルトに対して、アメリカの対日回答から暫定的協定案を削除して、基礎協定案のみを野村・来栖両大使に手交することを具申し、承認を得た。 「中国政府の反対及び英蘭豪政府の冷淡な支持または事実上の反対に鑑み、また反対が広く周知のこととなった事実、及び暫定協定がとくにもっている広範な重要性と価値とに関する理解の全面的欠如に伴い、当然これ以上の反対の、なお広がる可能性に鑑み、いずれにせよ太平洋地域に関心を持つ侵略国に対抗する諸国すべてにとり、右措置が賢明かつ有利なりとする私の見解を捨てはしないが、この際日本大使を招き一般的平和解決の為の総合的基本的提案を手交し、同時に暫定協定を撤回することを哀心より強く提唱するものである」 — ハル しかし、中国の反対は事実であったが、それ以外の国の対応については事実ではなく、「これ以上の反対の、なお広がる可能性」も内容が不明である。また、戦後に行われた真珠湾攻撃に対する米国上下両院合同調査委員会におけるハルの証言では、大統領と「どんな会話を交わしたか、何も思い出せない」としており、暫定協定案が放棄された経緯は明確ではない。 なお、ハルの回想録によると、中国の反対及び日本と暫定協定を進めることが中国の戦意を崩壊させる危険性を考慮して、暫定協定案を放棄したような記述となっている。 暫定協定案の放棄及びハル・ノートの提示は、陸海軍の長官にも知らされておらず、関係国との協議もなかった。
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