暫定国民政府の分裂とSRRCとの和解交渉
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「ソマリア暫定国民政府」の記事における「暫定国民政府の分裂とSRRCとの和解交渉」の解説
2002年2月12日、当初からのメンバーモハメド・アフラ・カンヤレ(英語版)が、暫定国民政府からの脱退を示唆。2月16日、ハッサン首相はSRRCの元メンバーなどを加えた内閣メンバーを発表。3月11日、暫定議会はハッサン内閣を承認。 2002年10月、ケニアのエルドレットにて、暫定国民政府とSRRCを含むソマリア和平交渉が行われたが、決裂してアリ・マフディ・ムハンマドなど暫定国民政府代表が退席した。 2003年2月、ケニアのナイロビにて暫定国民政府を含むソマリア有力団体の和平交渉会議が行われたが、ハッサン首相は、暫定国民政府代表の2閣僚が暫定国民政府の立場を代弁しなかったとして、会議中にこの閣僚を解任。この和平交渉で7月には暫定憲章の改定が決議されたが、暫定国民政府はこれを拒否。 8月、初代の暫定国民議会議長アブダラー・イサーク・ディーロウ(英語版)とハッサン首相は、暫定国民政府の任期が今月で終了したと発表。しかし暫定国民議会は両名を解任し、アブディカシム暫定大統領も「ソマリアに自由で公平な選挙による新体制ができるまで暫定政権は継続する」と述べ、和平会議を退席した。この時点で、暫定国民政府の主要メンバーは、アブディカシム暫定大統領、ムサ・スディ・ヤラホウ(英語版)(SSA)、オスマン・アリ・アト(英語版)(SNA)、バレ・アダン・シレ・ヒラーレ(英語版)(JVA)だった。以後、12月まで首相欠員。10月、アブディカシム大統領は、ソマリアの和平交渉を決裂させたとしてケニアとエチオピアを非難する声明を発表。 2003年12月8日、アブディカシム大統領はモハメド・アブディ・ユスフ(英語版)を首相に、ムスタファ・グドウ(Mustafa Gudow)を議会議長に指名。ただし8月に解任されたアブダラー前議長とハッサン前首相は、この指名には法的根拠が無いと非難。 ケニアナイロビでの和平交渉が難航したため、IGADの後援で、2003年12月9日から同じくケニアのモンバサにて、10日間の予定で非公式の研修会(retreat)が開催された。この研修会は結果として2004年1月9日まで延期され、和解が進展した。
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