国際関係と政治情勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 08:59 UTC 版)
サハラ周辺各国が一堂に会しサハラについて話し合う国際機関や協定は存在しない。アフリカ連合も、西サハラの独立派武装組織ポリサリオ戦線が樹立した亡命政府サハラ・アラブ民主共和国がアフリカ連合前身のアフリカ統一機構に1985年に加盟したことを受けてモロッコが同年脱退し、周辺各国がすべて加盟しているわけではない。 独立以後、サハラに引かれた国境線をめぐっては何度か国境紛争が起こっている。また、特にサハラに住むトゥアレグ人やトゥブ人などが中央政府に対して反乱を起こすことも多く、政情は安定していない。 1960年のアフリカの年にほとんどの国家が独立したあと、最初にサハラで混乱が起きたのはチャドであった。フランソワ・トンバルバイ大統領率いる南部の黒人中心の政権に対して1965年に北部のイスラム系住民が反乱を起こし、断続的に1990年まで内戦が続いた。この内戦には北のリビアが介入し、1973年にはリビアが領有権を主張していたチャド北部のアオゾウ地帯を占領下に置いた。さらにリビアは内戦への介入を強め、イッセン・ハブレとグクーニ・ウェディを交互に支援して何度か首都ンジャメナまで侵攻した。しかし1986年にはハブレ政権がリビアと対立を深め、リビアはチャドに侵攻。これに対しチャドは反撃し、1987年のトヨタ戦争においてテクニカルを駆使してリビアの戦車部隊を壊滅させ、アオゾウを奪回。1994年の国際司法裁判所の判決によってこの地域はチャド領と裁定され、リビアも撤退した。 ついで紛争が起こったのは、サハラ西端のスペイン領サハラにおいてである。この地域にはモロッコとモーリタニアとが領有権を主張していたが、1975年11月にモロッコが緑の行進と呼ばれる大デモンストレーションを行ってスペインに割譲を同意させ、同地域は北の3分の2をモロッコが、南の3分の1をモーリタニアが支配することになった。これに対し、西サハラの独立勢力であるポリサリオ戦線が激しく反発し、サハラ・アラブ民主共和国の建国を宣するとともにこの地域でゲリラ戦を展開、特にモーリタニア軍に対して圧力をかけた。ポリサリオ戦線は1976年6月には首都ヌアクショットに侵攻、さらに西サハラとの国境線上にあるフデリックの鉄鉱山に打撃を与えることができた。これによりモーリタニアはポリサリオ戦線と和平を結び、1979年にはこの地域の領有権を放棄する。しかし同時にモロッコ軍が放棄された南部にも侵攻して支配下に治め、南部諸州として実効支配下に置いた。この状態を解決するため国際連合が仲裁に入り、1991年には解決計画が両者間にて合意が成立し、住民投票によって帰属の意思を問うことが決定され、停戦が成立した。同時にこの停戦を監視する国際連合西サハラ住民投票ミッション(MINURSO)の平和維持軍も設立された。しかし投票資格をめぐって両者間は対立し、停戦は継続しているものの投票は無期延期となったままである。現在ではモロッコ軍は内陸部の無人地域との間に砂の壁と呼ばれる壁を築いて海岸沿いの有人地域を制圧しており、西サハラ側は壁の外側を支配している。 1990年代に入ると、気候の乾燥化による経済の悪化や中央政府の腐敗などに反対して、マリやニジェール北部に居住するトゥアレグ人が反乱を起こすようになった。この反乱はすぐに中央政府と和平が結ばれたが、2012年にはマリ北部で反乱が再燃。北部を完全に掌握し、アザワドとして独立を宣言した。 21世紀にはいるとイスラーム・マグリブのアル=カーイダ機構(AQIM)の勢力拡大に対抗するため、対テロ戦争の一環として2007年よりトランス・サハラにおける不朽の自由作戦が開始された。
※この「国際関係と政治情勢」の解説は、「サハラ砂漠」の解説の一部です。
「国際関係と政治情勢」を含む「サハラ砂漠」の記事については、「サハラ砂漠」の概要を参照ください。
- 国際関係と政治情勢のページへのリンク