トヨタ時代
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参戦打ち切りの後ミークはラリー界から距離を置いていたが、同シーズン中にフィンランドにあるTOYOTA GAZOO Racing WRT のファクトリーを訪れ、トヨタ・ヤリスWRCをテストした。監督のトミ・マキネンは元々ミークを高く評価しており、チーム立ち上げの際はミークに声をかけたこともあった。果たしてシーズン終盤にはシトロエンへ移籍するエサペッカ・ラッピと入れ替わる形でトヨタ加入が決定した。2019年より固定制となるカーナンバーは「5」を選択した。 2019年開幕3戦は堅実にポイントを重ねるがなかなか表彰台に届かず、シトロエン時代から続いているスランプから抜け出せずにいた。第7戦ポルトガルでは終盤までチームメイトのオット・タナクと優勝を争いながら、最終SSでクラッシュしてトヨタのワンツー・フィニッシュをふいにした。しかし第10戦ドイツで移籍後初となる2位表彰台を獲得。このラリーではチームメイトのタナクが優勝、ヤリ=マティ・ラトバラが3位となったことでトヨタとしては2017年の復帰後初の表彰台独占を達成した。しかし残りの3戦ではGBで初日首位を快走した以外は成績が奮わず、チームのマニュファクチャラーズ選手権も防衛できなかった。年間ランキング6位でシーズンを終えたが、シーズン終了後シートを失った。
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トヨタ時代
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2003年からトヨタへ移籍。開幕戦オーストラリアGPでは予選5位を獲得するものの、決勝では燃圧トラブルでリタイア。続く第2戦マレーシアGPでは決勝でフェラーリのルーベンス・バリチェロを追いかけ回す展開になるも、またしても燃圧トラブルでリタイア。第3戦ブラジルGPではジョーダンのラルフ・ファーマンのサスペンショントラブルに巻き込まれる形でリタイア。第4戦サンマリノGPでようやく9位完走を果たした。しかし、第5戦スペインGPでは予選6位を獲得するも、ギアボックストラブルでリタイア。第8戦カナダGPでようやく8位入賞を果たした。第10戦フランスGPでは8位入賞で自身初となる地元入賞を果たした。第12戦ドイツGPではこの時点でチーム最高位となる5位入賞を果たし、チームメイトの新人クリスチアーノ・ダ・マッタと共にダブル入賞を果たした。第15戦アメリカGPでは予選3位を獲得するも決勝は雨によるスピンでエンジンが止まりリタイア。トヨタにとって地元となる最終戦日本GPでは雨による幸運もあり予選4位につけるものの、雨を見越したセッティングで挑んだ決勝では雨は降らず10位完走に終わった。同年は6ポイントを獲得し、ドライバーズランキングは15位となった。 2004年はマシンの戦闘力不足により開幕戦から苦しい戦いが続いた。第6戦モナコGPではクラッチトラブルによりピットスタートを余儀なくされるが、完走10台というサバイバルレースでシーズン初の8位入賞を果たした。第9戦アメリカGPではセッティングがハマり、シーズン最高位となる5位入賞を果たした。シーズン途中で改良型のTF104Bが投入されるも、パフォーマンスが大きく改善されることなく、入賞は第14戦ベルギーGPのみ。そして、2004年の日本GPをもってレギュラードライバーを引退した。 2005年からは同チームのテストドライバーを務めた。シーズン開幕当初のレギュレーションでは金曜フリー走行に参加する資格を有していなかったが、レッドブルの働きかけによりレギュレーションが変更となったことから、パニスの引退によりフランス人ドライバーが不在となったことを憂慮したバーニー・エクレストンの要請を受けて、第10戦フランスGPのみ、リカルド・ゾンタに代わり第3ドライバーとして金曜フリー走行に出走することとなった。 2006年を最後にF1から完全に引退することとなったが、氷上レースにトヨタから参加することになった。
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