オスマン帝国・ロシア帝国と正教会
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「正教会の歴史」の記事における「オスマン帝国・ロシア帝国と正教会」の解説
オスマン帝国が東ローマ帝国を蚕食していった時期は、ルーシではモンゴル帝国の影響が強く、キエフ大公国が衰え新興のモスクワ大公国が進出する時期にあたっている。1329年、キエフおよび全ルーシの府主教座は現在のモスクワに移転した。 タタールのくびきと呼ばれる遊牧民の支配下にありながら、14世紀から15世紀にかけて、ルーシにおいては荒野修道院運動が活発となり、至聖三者聖セルギイ大修道院やソロヴェツキー諸島の修道院群などの原型がこの時代に成立。輪作技術を修道士達が西欧からルーシにもたらし、国土の開拓が広く行われた。精神面でも荒野修道院は多大な影響をもたらし、当時活躍したイコン画家であり修道士でもあったアンドレイ・ルブリョフのイコン『至聖三者』は、正教会のみならずカトリック教会でも使用される事がある。 1453年のコンスタンティノープル陥落後、モスクワは「正教最後の砦」を自称する。また1547年以降、モスクワ大公はツァーリを自称する。首都モスクワは「第3のローマ」「第3のエルサレム」と呼ばれた。このような宗教と結びついた民族意識の高揚は、一面で民族の結束につながる一方、選民意識と他民族の土地への領土拡大を正当化する意識をロシア人に与えることともなった。1589年、ロシア正教会は独立教会の祝福を正式に受け、モスクワ総主教座が成立。コンスタンティノープルの管轄を正式に離れた。 ロシア正教会は帝国の国教とされ、カトリックなど他の宗派の活動は制限された。反面ピョートル1世ら皇帝の正教会への介入と統制は正教会史上類をみない厳しいものであった。ピョートル1世は西欧化政策を教会にも及ぼし、北欧のプロテスタント国の国教制度にならう統制制度を導入した。1700年にモスクワ総主教アドリアンが没すると、後任をおくことを禁じ、皇帝が直接任命する聖務会院をかわって設置した。 また1721年には総主教制を廃止し、聖務会院が教会と修道院を管理するとした。この体制はロシア革命が起こる1917年まで続いた。国家の介入は高位聖職者にもおよび、修道院の閉鎖と財産の国有化が推し進められた。ドイツ出身のエカチェリーナ2世も、教会への統制を厳しくした。この統制のもとで、ロシア教会は精神的に荒廃したとしばしばいわれる。この荒廃の時期は18世紀末まで続いたが、後述する『フィロカリア』の紹介を中心とした静寂主義が修道院を拠点に広まったことで、ロシア正教会の信仰生活は復興したといわれる。 一方、オスマン帝国の側も一応はキリスト教信仰を認めたものの、とりわけ帝国の中期以降はイスラームの絶対的優越性の理念の下クリスチャンは厳しい迫害と抑圧に苦しみ、帝国領内での神学教育の禁止やイスラーム教徒への布教禁止など宗教活動でも制限を受けた。このため聖職者の養成は、ローマなど西方に留学して神学を学ぶことにより行われた。これは東方正教会のなかにローマ・カトリック教会の影響を強めることになった。 1782年、ギリシアで聖歌集『フィロカリア』が出版された。タイトルはギリシア語で「美を愛する」を意味し、ここでいう美とは神のことである。アトス山の修道士ニコディム・アギオリトとコリント主教マカリーの編纂したこの聖歌集は、正教会の伝統である神秘思想・静寂主義を、美しくわかりやすい表現に移し、一般の信徒が日々の礼拝のなかで接することのできる形を与えた。『フィロカリア』は各国の言語に訳され、全正教会に広まり、停滞していた教会内で信仰の再興につながった。『フィロカリア』は現在でも正教会が共有する精神財として、世界各地の正教会で使われている(日本語への部分訳あり、ただし正教会による翻訳ではない。エンデルレ書店より刊行。またこれと別に2006年より全文の翻訳刊行が日本人研究者によりなされている)。
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