オスマン帝国・ギリシアの文献
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「ミロシュ・オビリッチ」の記事における「オスマン帝国・ギリシアの文献」の解説
オスマン帝国側の初期の文献の多くでは、ムラト1世は戦場で共を連れずに行動していたところを、死体に紛れて身を潜めていた無名のキリスト教徒に襲われ刺殺されたのだとされている。例えば15世紀前半の詩人アフメディーは「突然、血にまみれて敵の死体の中に隠れていたと思しきキリスト教徒の一人が立ち上がり、ムラトに駆け寄って短剣を突き立てた。」としている。 歴史家のハリル・イナルツク(英語版)は、コソヴォの戦いに関する比較的近い時代のオスマン帝国側資料で特に重要なのが、詩人エンヴェリ(英語版)の1465年の作品『デュストゥールナーメ』 (トルコ語: Düstûrnâme)であるとしている。イナルツクによれば、この文献は戦いに実際に居合わせた人物の証言をもとに書かれている。その人物とはおそらく、戦闘前にセリム1世がラザル・フレベリャノヴィチのもとに派遣した使者ホジャ・オメルである。エンヴェリの記述によると、暗殺者「ミロシュ・バン」はセルビア貴族になる前はオスマン帝国のスルタンの宮廷につかえていたムスリムだったのだが、脱走して棄教したのだという。伝えられるところによれば、スルタンは何度も彼を呼び戻そうとした。しかしエンヴェリによれば、ミロシュは毎回帰ると返答しておきながら帰らなかった。コソヴォの戦いに関しては、この文献によれば、ラザルが捕らえられた時、黒い牡馬に乗っていたセリム1世のもとにミロシュがやってきて「私はミロシュ・バン、我がイスラームの教えに帰り来て、御身の手に接吻しとうございます。」と言った。そしてセリム1世に十分近づいたところで、袖口に隠し持っていたダガーで刺し殺した。その後、ミロシュはセリム1世の傍にいた者たちにより、剣や斧で細切れに斬り殺された。 また15世紀に活動したエディルネ出身の歴史家オルチュ・ベイ(英語版)によれば、オスマン軍は逃げる敵を追うのに気を取られて、スルタン暗殺の隙を生んでしまった。そのキリスト教徒(ミロシュ)は「みずから犠牲になると約束して、一人馬上にいたムラトに近づいた。彼はスルタンの手に接吻すると見せかけて、鋭いダガーでスルタンを刺した。」。 15世紀後半ごろから、ギリシア語文献でもミロシュのスルタン暗殺物語が言及され始めた。アテネの学者ラオニコス・ハルココンディリス(英語版) (1490年ごろ没)は、ムラト1世の暗殺者を「ミロエス」(Miloes)と書き、「貴族の生まれで、みずから進んで暗殺という英雄的な行動を成し遂げようと決断した(者)。彼はラザル侯から必要なものを貰い受け、馬に乗って脱走者のようにみせかけムラトの陣営へ去った。ムラトは、戦いを間近にして自軍のただ中に立っていたのだが、脱走者を受け入れようとしたがっていた。ミロエスはスルタンとその護衛たちの元までたどり着くと、槍をムラトに向け、彼を殺した。」と紹介している。同じく15世紀後半の歴史家ミカエル・ドゥーカス(英語版)は、著書『ビザンツの歴史』をムラト1世暗殺の話で締めくくった。ここでは、若い貴族が戦場からの逃亡を偽装し、トルコ人に捕らえられた後に、「勝利への鍵を知っている」といってムラトに近づき殺した、ということになっている。 ミオドラグ・ポポヴィチ (1976)は、セルビアの伝説で語られるうちの、ミロシュが秘密裏に、かつ計画的に事を運んだという要素はすべてオスマン帝国側の文献に端を発しており、それらは元をたどれば、敵のキリスト教徒が「よこしまな」手だてでムラト1世を殺したと中傷する叙述だったと指摘している。トーマス・A・エマートもポポヴィチの説に賛同している。 エマートによれば、トルコ語文献が早い段階でムラト1世の暗殺に何度も言及しているのに対し、西洋、セルビア側の文献で同様の言及が為されるのはかなり後になってからである。エマートは、セルビア人が暗殺の事実を知っていたにもかかわらず、何らかの理由で記録しないことにしていたのだと推測している。 オスマン帝国の歴史家メフメト・ネシュリ(英語版)は、1512年の著作でコソヴォの戦いを詳述しており、これが後のオスマン帝国や西洋の文献が参考にする、コソヴォの戦いの基礎文献となった。ネシュリはセルビアで良く知られている伝承からもいくつか材を得ており、ムラト1世暗殺の経緯を、暗殺者に否定的な調子で書き記している。
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