エジプトの追放と復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 13:24 UTC 版)
こうした一連の協調を対立関係に変えてしまったのが1978年3月のキャンプ・デービッド合意である。この合意においてアラブ側の中心国家であり、4度の中東戦争において唯一アラブ側ですべての戦争に参加していたエジプトのサダト大統領とイスラエル首相のメナヘム・ベギンの間で、両国の停戦と相互承認が締結されたことは、アラブ諸国に激震をもたらした。アラブ連盟の対イスラエル共通政策である「和平せず、交渉せず、承認せず」に違反したとしてエジプトは強い批判にさらされ、同年11月にイラクのバグダッドで行われた1978年アラブ首脳会議(英語版)で主導国であるにもかかわらずアラブ連盟を追放されてしまう。同時にアラブ連盟の本部もブルギーバ政権下のチュニジアのチュニスへと移転した。この会議を主催してエジプト追放に成功したイラクはエジプトに代わってアラブの盟主になることも目論み、後にイラン・イラク戦争を引き起こす原因の1つになったともされる。 1980年から1988年まで続いたイラン・イラク戦争では、イラクが連盟内の国家でありイランがそうでなかったこと、およびこの前年の1979年に起きたイラン革命によって成立したイスラム共和制に対し殆どの加盟各国が強い警戒心を抱いたことから一貫してイラクを支持し続けた。1987年にパレスチナで起こった第1次インティファーダについては支援を行う決議を採択した。またこの間エジプトが加盟各国との関係改善に努めた結果、1990年3月にはエジプトが連盟に復帰して本部も再びカイロへと戻った。
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