エジプトへの遷都
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「ファーティマ朝のエジプト征服」の記事における「エジプトへの遷都」の解説
最初のカルマト派の攻撃を撃退した後、地方の混乱が続いていたにもかかわらず、ジャウハルは主君のムイッズを迎えるにあたってエジプトが十分に鎮静化していると判断した。ファーティマ朝のカリフは宮廷全体、財宝、そして先祖の棺までも含むイフリーキヤからエジプトへの移動の準備を始めた。長い準備の末にファーティマ朝の支配者とその随行団は972年8月5日にイフリーキヤのマンスーリヤを出発し、アイン・ジェルーラ(英語版)に近いサルダーニヤに向かった。そこで次の4か月の間にカリフへの随行を望んだファーティマ朝の支持者たちが一団に加わってきた。10月2日にムイッズはブルッギーン・ブン・ズィーリー(英語版)をイフリーキヤの総督に任命した。11月14日、人々と動物たちの巨大な隊列がエジプトに向けて出発し、973年5月30日にアレクサンドリア、続いて6月7日にギーザに到着した。途中、アブー・ジャアファル・ムスリムが率いる地元の名士の代表団と合流し、旅の最終段階で同行した。6月10日にムイッズはナイル川を渡り、フスタートとそこで準備されていた祝賀祭を無視して新しい首都に直行した。ムイッズはその都市の名前をカイロの名で知られるアル=カーヒラ・アル=ムイッズィーヤ(ムイッズの勝利)と改名した。 ファーティマ朝のカリフとその宮廷の到着はエジプトの歴史における重要な転換点であった。すでに先行したトゥールーン朝とイフシード朝政権の間にエジプトはプトレマイオス朝以来初めて独立した政体の中心地となり、自立した一大地域勢力として浮上していた。それにもかかわらず、これらの政権の野心は地域的なものに留まり、その野心はアッバース朝の宗主権の範囲に留まっていた政権の支配者の人格と結びついていた。これとは対照的にファーティマ朝政権はアッバース朝に対して明確な敵対姿勢を取り、イスラーム世界の統一という自身に与えられた宗教的な使命を帯びて、拡大主義的であるとともに革命的な勢力であることを示した。この出来事は東方のイスラーム世界における十二イマーム派とスンニ派の発展にも影響を与えた。ファーティマ朝がイスラーム世界における指導者の地位を真剣に主張する存在として現れたために、他のシーア派、特に最大の宗派である十二イマーム派はイスマーイール派のファーティマ朝との差別化を余儀なくされ、独自の教義、儀式、祭礼を特徴とする明確に異なる集団となることでより一層分離が進んでいった。さらにスンニ派の間でも同じような変化を促され、アッバース朝のカリフのカーディル(在位:991年 - 1031年)によってスンニ派の教義と反シーア派を掲げた綱領(英語版)が成文化されるに至った。その結果として、シーア派とスンニ派の間で相互に排他的な集団となる形で分断が固定化した。歴史家のヒュー・ナイジェル・ケネディ(英語版)が記しているように、「もはや単なるイスラーム教徒でいることは不可能だった。スンニ派かシーア派のどちらか一方であった」。 エジプト征服から2世紀後の1171年にサラーフッディーンによってファーティマ朝の支配は終焉を迎え、結果としてファーティマ朝は野心の実現に失敗した。そしてエジプトでスンニ派による統治とアッバース朝の宗主権が復活した。それでもなお、ファーティマ朝はエジプトを変容させ、普遍的な帝国の中心地としてのカイロの基礎を築いた。それ以来カイロはイスラーム世界の主要な中心地の一つであり続けている。
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