ムハンマド没後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/14 13:47 UTC 版)
「ズバイル・イブン・アウワーム」の記事における「ムハンマド没後」の解説
640年7月にはエジプト遠征に向かったアムルのために10,000の兵士を率いてヘリオポリスの戦い(英語版)の戦いに参加する。出陣の前、二代目の正統カリフ・ウマルはズバイルにエジプトの統治に興味はないか尋ねたが、エジプトの支配よりも征服活動の従事を望む旨を答えた。フスタートの包囲においてズバイルは梯子をかけて城壁を登り、イスラーム軍の先陣を切った。戦後、ズバイルはイスラーム軍がエジプトの土地の分配を求め、あるいは分配された土地に邸宅を建てたことが伝えられている。644年、ウマルは死に際してズバイル、アリー、ウスマーン、タルハ、アウフ、アブー・ワッカースら6人のサハーバ(教友)に後事を託した。協議(シューラー)においてズバイルは自らの権利を放棄してアリーを推薦したが、最終的にウスマーンが新たなカリフとなる。 ウスマーンの死後、ズバイルはアリーの即位に反対していたが、バイア(忠誠の誓い)を行って一度はアリーの即位を認める。しかし、小巡礼(ウムラ)に発つことを口実にタルハと共にマディーナを脱出し、メッカに滞在していたムハンマドの寡婦アーイシャと合流する。アリーの即位に反対する3人はアリーにウスマーン暗殺の責任を問うことで意見を一致させ、ウスマーン暗殺の首謀者はアリーであると喧伝した。 バスラに移動したズバイルたちは軍備を整え、656年12月にズバイルら反乱軍はアリー軍とバスラ近郊で交戦する(ラクダの戦い)。数度の交戦の後、アリーに自らの非を指摘されたズバイルは軍を引き上げたが、子のアブドゥッラーに言い包められて再びアリーと対峙した。イスラム教徒同士の闘争に恐怖を覚えたズバイルは戦場から退却するが、逃走中に殺害される。アリー軍の兵士ウマイル・イブン・ジュルムーズによって殺害される。ズバイルの死を知ったアリーは彼を殺害した兵士ウマイル・イブン・ジュルムーズを火刑に処し、持ち帰られたズバイルの剣を見て嘆息したと伝えられている。あるいは、ズバイルはバスラに駐屯していたイスラム教徒アフナフによって殺害され、アリーからズバイル殺害の罪を責められたアフナフは自害し、アフナフが献上したズバイルの剣を見たアリーが嘆き悲しんだとも言われている。
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