ウマリー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/11 03:37 UTC 版)
「アブバカリ2世」とされる人物について最も頻繁に引用される文献が、シリア生まれの百科全書家、シハーブッディーン・アフマド・ブン・ファドルッラー・ウマリー(英語版)(Shihāb al-Dīn al-Umarī, 1300/01-1349)が著したエジプトの年代記である。ウマリーは、マンサー・ムーサーがエジプトを訪れた25年後に、このマリの支配者と会話を交わした人物に会って、話を聞いた。カイロの統治者、イブン・アミール・ハージブ( Ibn Amīr Hājib )は、マンサー・ムーサーに、あなたはどのように王様になられたのですかと聞いた。王の答えは次のようであったという。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}私は代々、王の権威を受け継いでいる家の出身です。しかるに先代の王さまは、環海( al-Muhit )には向こう岸があると考えられました。この考えにとらわれた王さまは、それが正しいことを証明しようと、数百艘の舟を作らせ、手下どもを載せ、黄金と食料、水をどっさり、数年は持つ分の量を積み込ませました。そして出航の際には、海の果てるところに行きつくか、食料と水が尽きるかするまで、戻ってくるなと、命じられました。すべての舟が出払い、長い月日が過ぎましたが、一艘も戻ってこなかったところ、ついに一艘の舟が戻ってきました。私が船頭に何があったのか聞いたところ、彼が言うには、「王子さま(又は、陛下)、私どもはずいぶん遠くまで舟を走らせてまいりました。そこへある時、海の中を強い流れが川のように流れているところに出くわしました。私は艦隊のしんがりを務めさせていただいておりましたが、前の舟がそこで前へ進もうとすると、瞬く間に流れに呑まれてしまいました。あれらの身に何が起きたのかはわかりません。私自身は、渦巻きに突っ込む冒険はご免こうむりまして、戻ってまいりました。」とのこと。 王さまはこの男の言うことを信じようとはなさらず、その態度に不満を持たれました。そこで、半分は御自らのため、半分は手下どものために、2,000艘の舟を用意させ、さらに食料や飲み水を運ぶ舟も別に用意させました。そして、私に国を任せ、手下どもを引き連れてアル=ムヒトの海へお発ちになりました。それ以来長い年月が経ちましたが、前の王さまを見た者はいません。私はずっと王国のあるじのままなのです。 —マンサー・ムーサー、ウマリー『諸王国見聞記』(Masālik al-abṣār fī mamālik al-amṣār) 上述の、伝聞に伝聞を重ねたアネクドートにおいては、先王の名前には一切言及されず、ただマンサー・ムーサーに王統があるということが語られるという点が特徴的である。また、どの港からあるいはどの地方から出航したのかなどの詳しいことはわからない。さらに、舟に関する言及内容も、ありそうもない話であり、「とても、とても、たくさん」の比喩として理解するほかない。この小咄には、大洋の向こうにある遠く離れた土地を探すという言葉が含まれておらず、アフロセントリズム的文脈で語られる言説に見られる詳細な内容は、ウマリーの短い描写の中にはない。
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