「たとえ話」説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/11 03:37 UTC 版)
生き残った船長が、他の舟は渦巻きに飲み込まれてしまったと明白に証言していることに注意すべきである。これは西方へ流れる海流についての言及であったというよりむしろ、中世神話における舟を飲み込む海の深淵(アビス)についての言及である。また、13世紀のオリエント界隈には、王さまが無謀な冒険に挑むという、ウマリーの所伝と明らかに類似した話が流布していた。そのため、ウマリーがダルヴィーシュ(遊行僧)から聞いた話を換骨奪胎して、エジプトのアミールから聞いた話の信憑性を増すために用いたという解釈が許容されよう。 大西洋探検のアネクドートが、教訓的な性格を持ち、アラブの歴史家に向けて支配者のあるべき姿を示すために作られた可能性はある。ウマリーは、「鏡の王子」という中世説話に典型的な様式に沿って、その後継者であるマンサー・ムーサーに対置させるかたちで、あるべきでない支配者像を描いたかもしれない。そうすると、名もなきマンサーは統治問題に無関心な忌避すべき王を表したものであろう。そのかわり、大洋を渡った向こうに何があるのかという、人が知ろうとすべきでない問いに対しては、溺れることになるという答えを示そうとした。なぜならば、アッラーフとクルアーンの権威によれば、そこに陸地などないのだから。為政者は明らかな神の徴に挑戦するべきではない。ほとんどすべての舟が沈み、生き残った者は数人にすぎなかったのは、傲慢なマンサーに警告を与えたものである。ところが、かのマンサーは、自分自身の傲慢さと挑戦を受けた神に気づかず、ばかげた計画のために何千もの必要物資を持ち出し、帝国から掘り出した資源を舟に積み込んだ。 これに対してマンサー・ムーサーは、カイロのウラマーの指示に謙虚に応じ、彼らの禁じるところにすぐに従った。前王と対照的にマッカへ巡礼し、信仰の篤い者たちを領国へ連れ帰った彼ならば、かの地にイスラームの教えを根付かせる。彼はトンブクトゥとガオにモスクを建てさせ、そこに気前よく聖なる書物(クルアーンとハディース)を備えさせたため、為政者の鑑となった。教訓となることが意図された説話の効果を増すために、まだ生々しいマリからの巡礼者たちの記憶をウマリーが有効利用したという解釈は、極めて説得力がある。
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