「ただ一撃で、この戦争は終わる」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 00:26 UTC 版)
「アウステルリッツの戦い」の記事における「「ただ一撃で、この戦争は終わる」」の解説
午前8時45分頃、敵軍中央部が手薄になったと確認したナポレオンがスールト元帥に対して部隊が高地に到達する為に必要な時間を尋ねると彼は「20分以内です。陛下」と答えた。その15分後、ナポレオンは攻撃命令を下し、「ただ一撃で、この戦争は終わる」と付け加えた。 中央部攻撃を担当する部隊はスールト元帥の第4軍団に所属するサンティレール (en) 師団将軍とヴァンダム師団将軍が指揮する2個師団である。深い霧がサンティレール師団の前進を覆い隠したが、彼らが斜面を登っていると霧が晴れて太陽が浮き上がり、前進する兵たちを奮起させた。このエピソードは「アウステルリッツの太陽」(soleil d'Austerlitz)として知られる。丘の上のロシア兵と指揮官たちは、多数のフランス兵が彼らに向かって進撃している姿を見て驚愕した。 ここで、フランス軍右翼への兵力移動が遅滞していたことが幸いし、連合軍指揮官は第4縦隊の一部を高地争奪戦に投入できた。だが、1時間を越える戦闘の後、この部隊のほとんどが壊滅してしまう。第2縦隊の兵士(そのほとんどが経験の浅いオーストリア兵)もまたこの戦闘に投入されて兵力が膨れ上がり、フランス軍に後退を強いた。だが死に物狂いになったサンティレールの兵士たちは再度猛攻撃を仕掛け、銃剣突撃により、連合軍を丘から撃退した。 北側ではヴァンダム師団がシュターレ・ヴィノフラディ(「古い葡萄園」)と呼ばれる地区で攻撃を行い、優れた小部隊戦術と痛烈な一斉射撃により、幾つかの連合軍大隊を撃破している。 クトゥーゾフは左翼軍司令のブクスホーデンに主力部隊を中央部へ差し向けるよう要請したが、ブクスホーデンは事態の重要性を未だに理解できておらず拒絶してしまう。 戦いはフランス軍優勢に転じたが、まだ終わってはいなかった。ナポレオンはベルナドット元帥の第1軍団にヴァンダム師団の左翼を支援するよう命じ、自らの本営をズラン高地からプラッツェン高地の聖アントニウス礼拝堂へ進めた。 危機的状況を受け、ロシア皇帝はロシア近衛軍の投入を決意した。ロシア皇帝の弟であるコンスタンチン大公が近衛騎兵を率いてヴァンダム師団に反撃を行い、この戦いにおいて唯一フランス軍旗(第4戦列歩兵連隊所属大隊の軍旗)を奪い取った。 ナポレオンは自軍の苦戦を見て親衛重騎兵隊に前進を命じた。フランス軍親衛重騎兵隊がロシア軍近衛騎兵隊に突進したが、両軍とも多数の騎兵を送り込んだため決着はつかなかった。ロシア軍が数的には優勢だったが、程なくドルーエ師団(第1軍団所属)が参戦したため流れが変わった。ドルーエ師団が側面に展開して騎兵隊を退避させた。近衛隊の騎馬砲兵がロシア軍騎兵やフュージリアに多数の損害を与えた。ナポレオンは止めを刺すべく近衛擲弾兵とマムルーク兵を投入する。再起したフランス騎兵から400mに渡る追撃を受けてロシア近衛兵は撃破され、多数の戦死者を出した。犠牲者には重傷を負ったクトゥーゾフと戦死した彼の娘婿のティーゼンハウゼン伯爵 (en) も含まれる。
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