「たなばたさま」作詞者の経緯
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「権藤花代」の記事における「「たなばたさま」作詞者の経緯」の解説
文部省唱歌「たなばたさま」は、太平洋戦争が始まった昭和16年、国民学校教科書「うたのほん下」に収録された。国民学校令(1941年3月1日勅令第148号)第六条には、「国民学校ノ教科書ハ文部省ニ於テ著作権ヲ有スルモノタルベシ」とある。すべての曲に作者の記載はない。教科書の編纂委員については、文部省内に音楽関係者がいないため、一時的に編纂委員が任命された。従来の編纂委員は、ほとんど東京音楽学校の教官に限られていたが、この時からは、教育音楽協会(小・中学校の教師を中心とした団体)の指導的人物が加わっている。編纂委員の中で芸大教官は、下総皖一、橋本国彦(後任 城多又兵衛)で、教育音楽協会の関係者が井上武士、小松耕輔、松島つねである。作詞関係が小林愛雄、林柳波であった。作曲関係の主任は、下総皖一で(『教育音楽』1962年9月号「下総皖一氏をしのんで」)、教師用伴奏については、下総皖一が一、三、四、六年を担当し、橋本国彦が二、五年を担当した。ただし編纂委員が作った旋律は、本人が伴奏をつけたものもある(『教育音楽』1961年3月号「教科書が国定であった頃」)。井上武士は、国民学校令公布(1941年3月)以前の1940年10月10日に、国民学校の教育内容を明らかにした『国民学校芸能科音楽精義』(国立国会図書館デジタルコレクション)を出版。この件については、『音楽教育の研究:理論と実践の統一をめざして』浜野政雄監修309頁参照。 戦後、暫定教科書を経て、1947年、文部省発行最後の教科書には、作者が公表されている。権藤花代作詞の「はねつき」と「数え歌」は継続掲載となって作詞者が明記された。ただし、「たなばたさま」は、「うみ」(林柳波作詞)などと同様、選考に漏れて採用されなかったから作者が公表されることはなかった。「数え歌」の歌詞は、花代自身が文部省に改訂を申し出て、部分的に改訂している。政府の登録原簿は焼けた(『著作権で損をするな』231頁)ために、旧作については、作者不明と記されたものも多いが、花代の作が明らかとなったのは、終戦直後(暫定教科書)から文部省と連絡をとっていたからである。『四年生の音楽』掲載の「数え歌」(古謡)には、琴を弾く女性の写真が大きく掲載され、下総皖一が琴用に編曲した「数え歌変奏曲」が鑑賞教材に推奨されている(『学習指導要領』昭和22年度)。 1946年からは、文部省内に音楽関係者が入省した。学習指導要領(試案)を作成し、戦後の音楽教育の道筋を示したのである。この責任ある立場にいたのが、諸井三郎、近森一重、真篠将、下総皖一、浜野政雄といった人たちであった。それに対して「教育の方法は国が定めるものではない」(『音楽教育明治百年史』264頁)、「われわれは、あらゆる統制から解放されなければならない」(『教育音楽』1951年10月号)と主張し、戦後になってから文部省に対峙したのが、小松耕輔、井上武士、小出浩平率いる日本教育音楽協会であった。 1949年、文部省著作と併用して民間発行の検定教科書が発行されるようになった。林柳波が疎開先の小布施から帰京したのも1949年であった(『大正美人伝』文芸春秋 294頁)。「たなばたさま」が再び世に出たのは、1950年である。二葉発行『おんがくの本 2』(教科書番号204)には作者の記載は「詞 林柳波、曲 不明」となっている。この教科書の編著者の松島つね(教育音楽協会理事)は、「おうま」作曲者(林柳波作詞)で、国民学校教科書編纂委員であったが、「たなばたさま」の作曲者については記憶がなかった。林柳波も国民学校教科書編纂委員であった。同年6月、文部省の近森一重が「検定済みといえば、どれもりっぱなものだと思ってはいけません。(中略)誤りや思わしくない点は、原則として指示しない、つまり、訂正するように注意しないことになっています。」と述べている(『音楽手帖』「検定教科書を選ぶために」)。思想的に片寄っている等の教科書を不合格とするだけなのである。 林柳波が補作したのは、1951年である。春陽堂出版『あたらしいおんがく 一ねん』は、歌詞の「ごしきのたんざく」の部分だけを「きれいないろがみ」と書き直した(教科書番号、109、113)。林柳波は「きれい」という主観を入れて補作を試みたが、ゴ音の重要性に気が付かなかったようである。この教科書の編集者は、教育音楽協会理事、鳥居忠五郎、中野義見らである。当時の音楽教科書の発行は10社が参入していた(教科書図書館データベース)。 作曲家の中田喜直は、自身の曲について一部の教科書会社が「出所のあやしげな楽譜」を転載した、とした上で「教科書会社の猛省を促す」と記している。また「原作を勝手に変える教科書会社」という見出しで毎日新聞に投稿したところ、多くの作詞・作曲者から賛同を得た状況を「悲劇」と語っている(『教育音楽』「音楽教科書と著作権」)。 1953年、教育芸術社は、作曲者である下総皖一と山田耕筰校閲の『一ねんせいのおんがく』(教科書番号 131、136)を発行。歌詞は、国民学校初掲載の「ごしきのたんざく」にもどり、作者は「うた ごんどうはなよ・きょく しもふさかんいち」と記されている。この教科書は、1960年まで8年間発行されている(教科書図書館データベース)。発行期間が長いということは、使用実績(販売実績)が伴うと推測できるであろう。この時、「たなばたさま」の作詞者が変わり、問題が社会的に浮上してしまった。林柳波が「たなばたさま」について語り始めた(『大正美人伝』285頁)のは1953年以降である。 1961年(花代の死亡年)に発行された少年少女歌唱曲全集『日本唱歌集』(4)ポプラ社に収録されている「たなばたさま」は、「権藤花代作詞、下総皖一作曲」と記されている。この楽譜は2013年著作権消滅の楽譜である。編者の真篠蒋と浜野政雄は、文部省教科書調査官であり、巻末の広告記載によれば監修は下総皖一(文部省視学官)となっている。この『日本唱歌集』は明治以来の唱歌の集大成として文部省教科書調査官が発行した316曲掲載の大著である。下総皖一は、東京芸術大学の音楽学部長を務め、浜野政雄も後に同職に就いている。 にもかかわらず、日本音楽著作権協会は、権藤花代と下総皖一の死亡後の1967年、『日本音楽著作権協会管理唱歌作品集』に「たなばたさま」の作詞者名を「権藤花代・林柳波」と連名で記載した。この作品集(非売品の冊子)の奥付には「当協会の資料として発行する」と記載があり、編集委員は井上武士(音楽著作権協会副議長)、勝承夫(同協会議長のち会長)、長谷川良夫、平井康三郎、薮田義雄となっている。筆頭編者の井上武士は、唯一国民学校の教科書編纂委員であった。が、自身が編んだ『日本唱歌全集』の中で国民学校音楽教科書は「各学年全部新作」という誤った認識をしている(音楽之友社 412頁)。実際は旧国定教科書から引き継がれた曲があり、日露戦争関連の曲、「冬景色」「おぼろ月夜」「われは海の子」等、有名な曲もある。また、井上武士は、1964年『日本学校唱歌選集』(カワイ楽譜)を編んだ際、「たなばたさま」の作詞者を林柳波と記しているから、井上武士が林柳波説を主張したことだけは、間違いない。井上武士は、林柳波と同郷で「うみ」の作曲者でもあり、二人のコンビによる校歌も多い。ちなみに、この『日本音楽著作権協会管理唱歌作品集』では「ほたるこい」「かくれんぼ」が林柳波作詞と記載されているが、前掲の教育芸術社発行の教科書によると「ほたるこい」は、いしもりのぶお作詞であり、わらべ唄の「かくれんぼ」の作詞者は「わからない」と記されている。「ほたるこい」の詩は、国民学校国語教科書『ヨミカタ 一』に掲載があり、国語の編纂委員であった石森延男作詞であることは明白である。 文部省唱歌は長い間、国が著作権をもっていた。佐野文一郎(文部省文化局著作権課長)の記述によれば、昭和40年代のはじめまでは文部省教科書管理課へ申し出れば無償で利用できた(『新著作権法問答』改訂版224頁)。日本音楽著作権協会が文部省唱歌の管理をするようになった際、文部省唱歌の著作権を管理する立場になかった者が著作権にかかわる資料を作成してしまったのである。したがって、このような文部省(下総皖一)無視の「たなばたさま」作詞者の記載に資料的根拠を求めることはできない。国定教科書に採録された文部省唱歌だけは、国の責任において発表した歌である。
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